人間の評価は人生の後半で決まる

 今現在、日本で超有名人となり、誰からも愛され、しかも憧れの存在として君臨する若手の男性が三人いる。それは羽生結弦藤井聡太、そして大谷翔平だ。彼らは若くして頂点を極め、しかもその人間性も賞賛の的になっている。

 しかし、私はあまりに良い子過ぎる人間に対し実は疑念を抱く。それは本人に対してより、むしろ社会状況や時代の雰囲気に対してより強い。その意味からして、私は「良い子」自身を頭から批判するつもりはない。

 人間の評価は人生の後半で決まる。なぜなら、産み落とされ、生かされ、信じ込まされ、操られる…そんな人生から脱却し、真に自ら生きることができるにはどうしても時間がかかるからだ。若くしてスケートや将棋や野球で頂点を極めたと言って、全体像としてその人間が一流だと決まったわけではない。

 最近、羽生結弦が結婚して僅か100日ほどで離婚したことが話題となり、芸能ニュースを中心にメディアを騒がせたが、本人自ら発表した離婚の言い訳を目や耳にして、それを鵜呑みにする人はあまりいないだろう。羽生結弦の離婚はマスコミやストーカーが原因というより、主な要因はあくまで本人と相手との関係性にあったと思うのが自然である。彼の良い子だった一面のボロが剥がれたかもしれない。

 羽生結弦はこうして彼の人間性を一部露わにしてくれたが、大谷翔平にも藤井聡太にも裏の顔は当然あるわけで、私が気になるのは彼らが表向きあまりに「良い子」過ぎることだ。私たちと同様長所も欠点も兼ね備えた人間なのだから良い子を演じさせられているしたら、むしろ気の毒である。

 今一番気になるのは藤井聡太。来年彼は地元中部電力のCMに出る契約を結んだが、まさか原発推進の片棒を担がされるんじゃないだろうな。電力会社の宣伝に出ること自体が怪しく、彼が周りの大人から操られるとしたらとても心配だ。

 そして大谷翔平。彼は史上最高額でドジャースと契約し、益々人間的評価を高め、まるで理想の青年のように崇められてしまった。だが、本当に彼の真価が問われるのは野球を引退してから。人間の価値をどこまで自覚しているか。野球のことで頭が一杯、そんな余裕は今の彼にはないだろう。

 若い時から自分の専門部分野に専念できるのは、ある意味幸せなのかもしれないが、現実社会の構造を知らないまま成長し、大人になっても専門分野以外に疎いままだとしたら、それは実はとても不幸な事態である。