未来図を前にして

 お盆の時期は空模様が急変し突発的に雨が降ったりするが、今夏もそうなった。いつもはこれを境に涼しくなるが。三年前の猛暑からどうも様子が変わり、8月後半も、9月に入っても夏の盛りは維持されたまま。

 それでも今年は過去三年間の夏に比べると北陸地方はまだ涼しく、今後最高気温が35℃以上になることはないと思う。毛布一枚でエアコンを点けっぱなしで寝ていると朝方は寒く感じるほど。ただし日中は32~33℃、普通の夏だ。

 おそらく来年、再来年も今夏と似たような普通の夏になる可能性はある。しかしその後、再び極端な猛暑・酷暑に襲われ、それがまた数年続き、長期的に見れば平均気温は段階的に上昇してゆく。普通に暑い今夏なのだが、近い将来26年は冷夏だったと気象庁に判定されるかもしれない。

 「異常気象」が異常じゃなくだんだん普通になりつつ昨今。逆走した台風15号はその象徴的な現象だったと思う。

 台風15号は茨城県の太平洋側から上陸し、その後、山陰の日本海側へ抜け熱帯低気圧になったが、こんな捻くれた台風を見たのは初めてだ。台風通過時、それほど大きな被害が出ずにホッとしたのも束の間、直後、千葉県に記録的な大雨が降り大災害をもたらした。

 台風が去ったからと安心できないことをつくづく実感。そして、温暖化による気候変動の実態をまざまざと見せつけられた。それにしても、ほんの少しズレていたら東京23区は想像を絶する集中豪雨で、とんでもない事態になっていたかもしれない。

 M7以上の大地震が頻発、局地的豪雨、広範囲に渡る酷暑と山火事、最近の自然の営みは「極端」という言葉が相応しい。それに加えて第三次世界大戦前のような雰囲気が社会を覆い、夢と希望の明るい未来図のはずが…だんだん黒く塗り潰されてゆく。

お金は何のためにある

 先日の朝刊(北陸中日新聞)の社会面に金沢の70代の女性がSNSの投資詐欺で6800万円をだまし取られた、との記事。またか、と思うと同時に高齢になってもなぜそんなに資産を増やしたがるのか不思議である。

 お金はいくらあっても足りず、増えればさらにもっと増やしたくなるのが人間の心理らしい。

 貯金することはとても大切、将来の人生設計のためにも必要だが、しかしこれは若い世代の話で高齢者に当てはめるべきではない。逆に、高齢者はこれまで貯めたお金をいかに減らすかを考えた方がいい。葬式代は別枠に確保し、それ以外の資産は死ぬまでに使い果たすのが理想だ。

 資産は死ぬまで上手に使い果たすのが理想…とはいえ、ただしこれはお金をある程度持っている人の話なのは確かである。

 ネットで調べたが「金融広報中央委員会などの調査によると、高齢者層(60代~70代以上)での貯蓄ゼロである割合は約20%前後、単身世帯(一人暮らし)で約27%~33%前後となっています」とのこと。「約5人~4人に一人が貯蓄ゼロという現実」はかなり厳しい。

 自由に使えるお金が全然ない人は日々なんとか生きるため精一杯だから、お金を上手に使い果たすなんて贅沢の極みかもしれない。それにしても同じ人間なのに貧富の差があり過ぎる。

 ただ、どんなにお金持ちでもそれを溜め込みたいだけの人と、お金がなくて一日一日やっとの思いで生きてる人は、資産の多寡でトンデモない開きがあっても、ある意味、両者は似た者同士かもしれない。

 ガツガツお金を溜め込むだけの人生も、食べることで毎日やっとの人生も、側から見れば精神的に余裕がないという意味では同じ、だから共に貧しい人々と言える。

植松聖こそ不幸極まりない

 人は誰でも赤ん坊としてこの世に生み落とされ、そして長生きすればするほど心身が衰弱する高齢者となってゆく。重度な障害者が他者の助けなくして生きられないように、赤ん坊も長期高齢者も他者の助けなくして生きることはできない。

 つまり、本来人間とはか弱い存在だったし、か弱い存在にいずれなってゆくのである。ところが、成長と共に健常者としての自惚から弱かった自分を忘却し、そして弱くなる自分を想像することができなくなる。この自惚と忘却と想像力の欠如が人間にとって最も愚かな生き方である。

 「障害者は不幸、不要、役立たず」と植松聖は凶悪犯罪に走ったが、では役立たずで不要で不幸な赤ん坊や高齢者も植松は殺したかったのだろうか。成人した健常者としての視点からでしか世間を見渡せないなら、ハッキリ言ってこれはほとんど盲目に等しい。

 不幸な人生の典型は弱い自分を直視できず虚勢を張ること。どんなにお金持ちでも、どんなに権力を握っても、それらは弱さを見せたくない自分を取り繕うカモフラージュに過ぎず、内心はいつもビクビクしながら日々を生きなければならない。

 毎日をビクビクしながら生きるしかないなんて、これほど不幸な人生があるだろうか。歴史上の独裁者だけでなく、現在の独裁的な為政者であるトランプやプーチンや習近平やネタニヤフや金正恩等にもソックリ当てはまる。

 もちろん、政治権力者が全て不幸なわけではない。社会的弱者に常に寄り添いながら、人々の自由と平等を実現するため、法に従い日々汗を流す政治家ならば人として幸いである。トランプを信奉し障害者を不幸と決めつけた植松聖こそ不幸極まりない。

 植松聖が生存中にするべきことは、自己を直視し、徹底的に反省することだ。反省することで彼は不幸な存在から脱却できる。自分の過ちを認め反省するのは弱さの露呈ではなく、むしろ人間として強くなれる証となる。それを知らないままこの世から去るとしたら哀れでしかない。

安易な線引きが不幸を招く

 相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」での惨劇からちょうど10年。入所者19人を殺害した犯人植松聖死刑囚は「障害者は不幸、不要、役立たず」と考え犯行に及んだ。10年経った今も植松聖死刑囚の主張は変わらず、反省どころかますます自らを正当化しているらしい。

 植松聖という人物が抱える最大の問題は、簡単に線引きなどできるはずがないのに、健常者と障害者を簡単に分離・分断させた彼の精神構造にある。

 どんな人間も大なり小なり、あるいは強弱の違いはあれど、肉体的にも精神的にも障害を抱えていて、それが人間というものだ。いかにも障害として見える目立つ部分を世間は強調し、そして特定の人間を障害者と決めてかかる。

 LGBTQ+もそうだ。表向きはどんなに男性や女性であっても、100%男性又は女性の人間など存在しない。異性愛者と自負する人間も心の領域に必ずLGBTQ+が宿っている。

 健常者か障害者かではない。異性愛者か同性愛者かではない。白か黒かではない。善か悪か、美か醜か、でもない。曖昧模糊が充満し増減を繰り返しながら世界は形作られる。この事実を素直に認められるかどうか。

 安易な線引きの典型が国境線であり、空からは見えないのに地図上に引かれた線に人々はこだわる。さらに言語、人種、民族、宗教等の違いから、人々は線を引くことであれこれ区別したがる。

 お互いの違いを認識することは世界観を広げ深める要素となるのに、線を引き区別することであちら側とこちら側で対立させれば世界観は狭く浅くなるばかりだ。特にこれを煽り利用するのが為政者であり、自らの権力を維持するため線引きという手段が有効活用される。

 「津久井やまゆり園」で事件を起こした植松聖は異常者というより、むしろ、ある意味で私たちを代表しているのかもしれない。私たち一人ひとりの心の内奥には明快さを求めるあまり、線引きして熟考から逃げ、短絡的に楽をして得意がる植松聖が巣食っている。

図書館を存分に利用したい

 久しぶりに図書館に出向いて短い時間とはいえ読書した。そして多くの書物に囲まれてる空間はやはり良いな、とつくづく思った。今後、図書館という公共施設を存分に利用して自分の人生をより豊かにしたい。

 以前、図書館には本を借りるため頻繁に通っていたが、紙よりタブレットで読む電子書籍の方がオシャレで、しかも文字の大きさなんかも変えられるから便利な気がして、ここしばらく図書館から遠去かっていたのだ。

 だが、歩いて10分ほどの近い場所にある図書館、前を通り過ぎるだけではもったいない。散歩がてらに寄り道し、本を借りるだけでなく、その場で読書に耽り別世界に耽れるのは特別な気がする。

 じつは、これまで電子書籍の読み放題 Kindle  Unlimitedに毎月980円払っていたが、図書館に魅了されたのでそれはもう止めた。タブレットもいいけど紙の方が正直しっかり読んだ気がして充実感に満たされる。

 月980円のkindle Unlimitedだが、じつは決して高くない。新書一冊より安いくらいだから、読みたい本を一冊ダウンロードするだけで元は取れる。新刊など全ての書籍は読めないが、この値段で Unlimitedに登録された本をを好きなだけ読めるのはやはり魅力的だ。

 ただ、やはり物価高の時世で毎月ほぼ1000円の出費は痛く、年金生活者の私には少しでも節約したいとの思いから Kindle  Unlimitedは止めることにしたわけだ。

 読書したければ近所の図書館で実際の書物を手にする。さらに嬉しいことに地元の電子図書館がネット上に存在するので、こちらも大いに利用したいと思っている。とにかく図書館は無料なので低所得者には本当に助かる。

 電子図書館はまだまだ書物の所蔵冊数は少ないが、今後どんどん増えるらしいから期待は大きい。今後、読書に関しては紙媒体が中心になるだろうが、電子書籍も便利なのでこれからも上手に使いこなしたい。

国際連合を発展させる

 国際連合は第二次世界大戦を防げなかった反省として国際連盟に代わり設立され、現在世界で最も重要な国際機関になっている。

 だが、現状を見る限り本来の機能を十分に果たせていない。それどころか、米国やロシアの我儘から、多数の国々が賛成する決議案を反故にされることが頻繁に生じ、世界の平和と安定が事あるごとに脅かされている。

 特に現在の米国トランプ大統領の傍若無人ぶりは酷く「私に国際法など関係ない」と吠えまくられ、彼の自分勝手な文言や行動で世界はむしろ危機的状況に陥っている。ロシアのプーチン大統領や中国の習近平の我儘ぶりもトランプと相似形である。

 国際連合の下、米国やロシアや中国のような大国は各国の見本になるよう国際法を遵守すべきはずなのに、むしろ逆に、これらの国は国際連合の上に君臨したがり、威張り、好き勝手放題の有り様だ。

 現状の国際連合は米ロ中の傍若無人のせいで、国際連合としての機能が全然果たされていない。しかし、だからといってその存在自体を無視したり意味ないものとして判断するのは早計である。

 国際連合は悲惨な第二次世界大戦の結果から、もう二度と人類に不幸な経験をさせまいとして組織されたが、戦後80年以上が経過してもまだまだ未熟であり、だからこそ価値ある存在として時間をかけて成熟させねばならない。

 真っ先に取り組むべき改革は、戦勝国で常任理事国米ロ中仏英の特権(拒否権等)を無くすこと。国際連合において加盟国は大小関係なくどんな事態であろうと対等・平等を貫き、国際法を決定する段階で貴重な一票の行使を経て多数決の決定には従わせる。

 歴史も文化も異なる各国が話し合いで決めた国際法は、ある一定期間を遵守させる。もし違法行為があればそれなりの制裁はあって然るべきだろう。最重要は特定の国の利益ではなく、地球上に生きる一人ひとりの人間の営みであり、国際連合が働くことでこれまでの国家主体から人間主体へと変貌できたらいい。

 もちろん国際連合のトップが支配的となり、まるで独裁者のように振る舞えば世界は最悪の状況を招く。たとえ世界から戦争は無くなっても、これは世界全体の刑務所化になるからだ。賄賂や裏工作の有無など、国際連合を監視する別組織は必要になると思う。

 一人ひとりが自由で平等で安全な地球をどのように実現してゆくか。簡単ではない。人類はいろいろ試行錯誤するだろう。だが難しいからと諦めるわけにはいかない。重要なことは、悩み苦しみながらもそれが実現する世界を目指すことなのだから。

安全安心はみんなで守る

 日本は憲法第九条に掲げられている通り「戦力を保持しない戦争を放棄」した国のはずだ。ところが実態は自衛隊という強力な軍隊を持っている。そこで、憲法に則り実際に軍隊を持たない国として日本を想像してみよう。武器を持たない日本が敵の攻撃からどうやって守るのか。多くの国民が不安を抱くのは確かに分かる。

 武器なき日本を守る。じつは全然難しいことじゃなく、世界中から守ってもらうようにすればいいだけのこと。どんな時代になろうと悪さをする輩は必ずいるが、悪党どもに対峙するため世界全体で防衛できるようような新システムを構築すればいい。

 日本だけでなく、米国もロシアも中国も、その他の国々も、日本の憲法第九条のような条文を取り入れ、国単位では軍隊を持てないようにし、国連が各国に存在した軍隊を整理・統合、管理する。ある国や地域が危機に瀕したとき、国連で議決した後に国連軍(警察)を発動させる。これほど安心できるシステムがあるだろうか。国同士の愚かな戦争は消滅する。

 現状、日本の自衛隊は敵と交戦できる軍隊になってしまったが、しかし災害時における活躍は大したもの。であればこそ災害救助隊として自衛隊は生まれ変わるべきだ。災害はまったく予知できず、いざとなれば国境を越え救助隊を派遣する。災害救助隊なら世界中から歓迎され尊敬される存在になるだろう。

 インターネットが世界中に張り巡らされた現在、歴史上世界がこんなに狭くなった時代はなかった。だから大小それぞれの国は自国を第一に考えるのではなく、一人ひとりの個人と世界全体の利益を一番に考えるべきではないか。

 そこで各国のリーダーは国連の場で以下のように演説して欲しい。

 各国が保持する軍隊をすべて国連の管轄下に置き、国単位で勝手に武器を使えないようにしよう。世界平和を脅かす不測の事態が起きたとき、国連の決議により国連軍(警察)を出動させて鎮圧にあたらせよう。

 これまで国単位で管理していた軍隊の一部を災害救助隊として残し、予期せぬ災害時にはすぐに働けるようにしよう。災害救助隊は国内に留まらず、制約なしに隣国だけでなく地球の裏側まで即行けるようにしよう。こうして全ての人々が安全で安心できる自由で平等な世界を築こうではありませんか。