これからが本番だ

 東京を中心に新型コロナが再び全国的に感染拡大しそう。五日続けて100人超えした東京だが、増加に拍車がかかるのは間違いなく、こんな事態になるのは「緊急事態宣言」を解除した時から分かっていた。第一波よりむしろ第二波の方が深刻になる可能性もある(特に今年の秋から来年の冬にかけて非常に心配)。

 新聞やテレビやネットなどの報道によると、新型コロナウイルスの感染者数が全世界で1100万人を突破し、死者の数も50万人をとっくに超えた。今現在、感染者と死亡者は指数関数的に増加する傾向にある。

 新型コロナが日本国内でも本格的に話題になり始めた今年の二月から三月頃、多少の感染増加はしょうがないと覚悟していたが、でも、数カ月で事態はほとんど治るだろうと思っていた。とんでもない間違いだったし、あまりに安易に考えていたことを反省したい。

 この脅威はまだ始まったばかり、というのが実態で、数カ月で収束するどころか、少なくとも数年間は新型コロナとの戦いは続く。実際、オリンピックもワールドカップも開催できる状況になく、社会の様式は変わるし、世界の構造は変わる。これまでの欧米中心主義が転換する可能性は大きい。 

 新型コロナは人類の現状に対する警告であり、今こそ人々の生活形態を見直す契機とすべきだ。新自由主義経済下のグローバル社会が完全に間違っていたことを証明するだろうし、米国や中国やロシアなどの大国の存在にも疑問を投げかけた。 

 日本では、東京一極集中の現状がいかに脆弱で危険であるか。東京の沈没がそのまま日本の沈没に直結するようでは話にならない。

 分散して各地方や各地域が自立する、そしてイザとなったとき、互いが協力し助け合いができる。公平で均等な小さな社会が集うことで真のグローバル化を目指す。いくつかの巨大なピラミッドが君臨し、世界を支配したがる「1984」的グローバル化など真っ平御免。

海辺のカフカの佐伯さん

 つい最近、村上春樹の「海辺のカフカ」の世界に耽溺、短期間で読み終えた。二つの異なる世界が並行して描かれ、最終的にどうなるかと興味津々。そのミステリーとエロスで構築された深淵な世界観に、私は読んでる間すっかりハマってしまった。

 しかし読了後、印象が少し変わったのも事実。最初から最後までメタファー(隠喩)に貫かれた物語はそんなに深かったのか?「オイディプス王」と「雨月物語」、そしてフランツ・カフカを下敷きに少年の成長を語るが、なんだか惑わされただけ…という気がしないでもない。

 それはさておき、小説という架空の世界に登場する人物に興味を抱くことは滅多にない私だが、「海辺のカフカ」に登場する佐伯さんはいつまでも印象に残る女性になりそうだ。なぜなら彼女は、謎めいて美しく、エロティシズムを漂わせ、私を魅了したから。

 絶頂にあった二十歳の佐伯さんだが、恋人の不慮の死からその後の人生が一変、五十歳を過ぎた現在までどんな人生を歩んで来たのか詳細は分からない。今は四国高松の私立甲村図書館で館長をしているという設定。果たして、佐伯さんは少年カフカの母親なのかかどうかが重要な謎として読者に提示される。

 佐伯さんの歳が五十過ぎというのがとてもいい。もし二十代や三十代の女性だったらまったく惹かれなかったと思う。なぜなら若い女性からは謎めいた雰囲気を醸し出すのは難しく、やはり豊富な人生経験が必要なのだ。彼女はスラリとして歩く姿がキレイ、近くに視線を落としながら、じつは遠くを見ている。

 具体的にどんな女性が佐伯さんに当てはまるかいろいろ思い巡らしたが、残念ながら見当たらない。日本で二度ほど舞台化されたとき、田中裕子と宮沢りえが演じたそうだが、今ひとつピンとこない。強いて挙げれば、樋口可南子とか賀来千香子が私のイメージに合う。ヨーロッパ映画を中心に活躍した女優のシャーロット・ランプリングならイメージにピッタリ合うけど。

 蛇足。アダルトビデオでは巨乳でスタイルがいい女性をたくさん眺められるが、しかし彼女たちからエロティシズムを感じることはまったくない。当たり前で、ただヤッてるところを長々と見せつけ、過剰な演技を繰り返し、あまりに露骨過ぎて、そこには謎めいたものなど一切存在しないからだ。

三つの人生

 単純に二項対立させ比較するのは好きじゃないが、物事を説明するには分かり易く便利だからついその手を使う。例えば人間について語るとき、男と女、背が高い低い、太ってる痩せてる、内向的と外交的、理科系と文化系、さらに肉食系か草食系か…等々。

 人間に関しては、それら外見的や性格的なこと以外に、生涯に焦点を当てることで大きく二つに分類できるかもしれない。早熟型と晩成型の違いと言えば簡単だが、その分類にはかなり深淵な意味があるはずだ。

 まず早熟型。若くして幸福の絶頂を迎え、後の人生は坂を下りるだけ、再び絶頂を味わうことを願いつついろいろ試みるが、二度と達成することはない。一方、喜びを知らぬまま底辺を彷徨い、ある時から幸福を求めなんとか坂を這い上がろうとするのだが、結局、頂上まで登り詰めることはできずに終わる。いわゆる晩成型。

 どちらが幸福な人生と呼べるのか判断するのは難しい。絶頂を味わえるのは幸福の極みだが、それは長くつづくはずがなく、後は転げ落ちるだけの人生なんて不幸そのものだし、喜びを知りたくて歩みつづけるのは幸福に見えるが、しかしいつまで経ってもそれに到達できないとしたら虚しいだけ。

 上記に述べた二つの型の人生は、結局はどちらも不幸な人生と呼べるかもしれない…と、ここまで書いて、もう一つ第三の人生が存在することに気づく。それは事件や事故や災害に巻き込まれたり、さらに悪徳政治が蔓延る時代に翻弄され、生誕から死まで底辺で右往左往せざる得なかった人生のこと。

 身の周りだけでなく、世界に視点を移せば、絶頂を味わえないどころか、上昇気流にも乗れず、そんな人々がどんなに多いことか容易に想像できる。最初から最後まで絶頂のままでいられるハズはなく、だから第四の人生はありえない。もしあり得ても、絶頂が続く人生などクソ面白くもない退屈極まる人生であることは間違いない。

 

本当の自由

 「型にはまるな、もっと柔軟に」と自らに言い聞かせたい。これすなわち、目的と手段を履き違えるな、ということ。「~すべき、~でなければならない」と自らを縛ってばかりいては、斬新な発想は湧いてこないし、目指す成果も得られるはずがない。

 日々を振り返り、これまでの生活様式を点検すると、どうしてこうも安易に型にハマってしまうのかと呆れてしまう。自らを律するとは聞こえはいいが、言葉を変えれば、自らに鎖を巻きつけてきただけじゃないか。

 自分の自由のため他者に足かせをはめることは論外だし、もちろん、他者の自由のため自らが犠牲になる必要もない。私もあなたも自由であること。しかし、そのために「自己」を意識し過ぎるのは禁物。本当に自由になりたければ、自分自身からも解放されるということ。

 こうして毎週自分のブログにエッセイのようなものを書いてる私だが、書きたいから書いてるわけで、「書かなければ」という気持ちに支配されてはいけないとつくづく思う。その意識が強過ぎると、それに囚われ、自由の領域がどんどん狭くなる。

 おそらく、毎日日記を書き続けてる人はかなり多いと思うが、日記なんか毎日書かなくてもいいはずで、書きたいときに書いて、その結果毎日つづいてるだけというのが健全だ。  

 運動も継続が肝心と、毎日身体を鍛えることが奨励されるが、休息日を設けた方が効果はあるらしく、適当に手を抜くことが重要で、一週間に土曜日や日曜日が必要なのと同じ。

 生理に直接関係すること、すなわち「食事、排泄、睡眠」、毎日しなければいけないのはそれくらいで、その他の日常は自分の好みで組み立てたり替えたりすればよい。繰り返すが、本当の自由とは「自分自身からも自由になる」こと、でもそれはとても難しいんだけどね。

新型コロナの6月

 昨日と今日の気温、朝方が16~17℃で日中は25℃前後。一日を通してこれくらいの温度変化が、寒くも暑くもなくちょうどいい。青空が広がり、まさに初夏の陽気、本当に清々しかった。

 玄関先の小さな庭ではヤマアジサイが咲き誇り、その幾つもの小さな紫の花びらの周囲を、蜜蜂が飛び交い、蝶が舞う。地面を覗くと、おそらくカナヘビだと思うが、全身茶色の小さなトカゲが何匹か這い回っている。なかなか楽しい光景で見飽きることがない。

 私は猫や犬などの動物だけでなく、昆虫から植物まで生物は好きでどれも興味深いが、それらを飼って養ったり、育てたいとは特に思わない。それらを自分だけのものとして取り込まなくても、家の周りでは草が生え、花が咲き、小動物が這いずり回り、四季折々の小さな自然の変化を楽しめるので十分。

 4月と5月の涼しさはどこへやら、6月に入って急に暖かくなり、中には真夏に近い日も迎えるようになってきた。梅雨入りは遅くなると思っていたが、どうやら今週中にそれは宣言されるかもしれない。先日、今年初めて扇風機を回したが、さすがにエアコンの冷房を入れるつもりはまだない。

 ところで、少し暑いかなと思う日など、スーパーなどではとっくに冷房が入ってる。暑いと冷房、寒いと暖房、それはそうだが、一年中どちらか必ず入ってるみたいで、客に対するサービスのつもりらしいが、これはやり過ぎだ。

 大型スーパーやショッピングモールは人で混み合うが、冷房はなるべく控えめにすべきでは。暑さに弱いはずの新型コロナウイルスにとって、冷房が効く場所は潜伏するのに絶好…と思ったりするが、実際はどうなんだろう。

 毎年繰り返される、秋から冬にかけてのインフルエンザの流行と共に、新型コロナウイルスの本格的な第二波には十分気をつけたい。ワクチンはそう簡単に開発されるとは思えず、東京オリンピックパラリンピックは早期に中止宣言すべき。延期されたお祭り騒ぎに莫大な金を回す余裕なんかないはず。

世界の根源は波

 ようやく初夏の陽気、しばらく好天がつづくだろう。外の景色を眺める限り静かで穏やか、表向き社会はなんとか無事を保っているが、しかしその裏側では生活に困窮し疲弊してる大勢の人々が息を潜める。新型コロナウイルスの緊急事態宣言は解除されても、本当の危機が社会全体に迫ってくるのはこれからだ。

 人々の間で新型コロナウイルス騒動も下火となり、社会全体が活気を取り戻しつつあるが、しかしそれは終息したわけでなく、あくまで経済優先を図った結果としてそのように見えるだけ。

 やや落ち着いてきたと思われる新型コロナウイルス、だがまた再び感染拡大し、第二波の到来は確実。長期戦なのだ。終息に近づいてるんじゃなく、まだ始まったばかりとの認識を人々は持った方がいい。今度また緊急事態が発令されたら救いようがなくなる。

 第二波が心配される最中、既に東京や北九州市ではその兆候が見られるし、真っ先にそれを経験したのが北海道で今現在も続いている。

 しかしながら、本格的な第二波はこの秋から冬にかけて起きるはずで、今騒ぎ始めた第二波はほんの序の口、小さな波に過ぎない。波には小さなものから大きなもの、さらに短期から長期までいろんな形で起こりうる。

 思えば世界は「波」で形成されているような気さえして、あらゆるすべての現象が「ゆらぎ」や「振動」など、波を根源に栄枯盛衰を繰り返しているかのよう。最新物理学の「超弦理論」は説得力がある、確かめようがないけど。

 今ちょうど、窓から見えるヤマアジサイが紫色の小さな花を幾つも咲かせて美しい。梅雨時に映える一般的な紫陽花と違い、ヤマアジサイは今が開花のシーズンなのか詳しく知らないが、ともかくどんな花でも目の前で咲いてくれるのは嬉しく、生きるに困難な雰囲気が充満する中、ホッとするひとときだ。こうして心も喜怒哀楽の波に揺れつづけている。

緊急事態宣言は解除されたが…

 五月も下旬。今月は暖かい日もあるにはあったが、全体的にかなり涼しく、先週はエアコンの暖房を点けてしまった。去年の同じ頃は晴天に恵まれ、真夏のような暑い日が続いていたことを思い出す。今年に入り暖冬だったが、春から初夏にかけては寒いくらい、例年のような寒暖差をそれほど感じない。

 先週末、金沢の繁華街(片町・香林坊)を散策した。再開する店舗数は増え、ネオンも輝きだしていた。しかしまだまだ人通りは少なく寂しい。今月中に賑わいの復活などありえないことは分かる。しかし、六月に入っても大丈夫だろうか。

 「新しい生活様式」に惑わされ、当分苦しい状況が続くのは間違いない。そして秋・冬を迎えたとき新型コロナの第2波・第3波への対処をどうすべきか。

 近くのドラッグストアに寄り、2000円で50枚入りのマスクを購入。もう既にいろんなマスクが大量に販売されてる。アベノマスクなんてもういらない(未だ届いてない)が、もしそれが届いても開封せず送り返すつもりだ。返品されたアベノマスク(おそらく相当数になるだろう)を、これから感染拡大が懸念されるアフリカや南アメリカの諸国に無償で寄付してもらいたい。

 政府は首都圏や関西圏や北海道など特定指定地域の緊急事態宣言も解除し、社会全体がようやく元の日常へ戻れる第一歩を踏み出したが、それにしても長期間の「自粛」とはいったい何だったのか。

 もし、検査数を増やすことが可能で、感染してるかどうかが多くの人々に把握できるシステムが構築されていたら…大それた「自粛要請(ほとんど強制)」は必要なかったのでは、と疑問に思う。「医療崩壊」を口実に経済基盤をガタガタにさせ、多くの労働者たちを不安に陥れた安倍政権と専門家たちの責任は重い。

 長期の異常事態を目の当たりにして、安倍政権の新型コロナウイルスへの対応がいかに頼りなく信頼に値しないものであったかが分かった。政府はこの数ヶ月間確固たる指針が決められず、ただ右往左往していただけだった。