ねじれた現実

 進歩する科学技術は時代ごと常に新しい物を産み出すが、そんな新製品に対してどのように関わり対応するか、その姿勢如何で同時代を生きる人々の思想や行動が問われる。

 資本主義の下、物を利用し儲けることを第一に考える勢力は、新製品に対してはおおよそ好意的前向きに捉えたがり、対して平和や人権を訴える勢力は疑問を抱き批判的である。

 分かりやすい例として自動車(車)がある。車が発明された当時、おそらく事故が多発し、多くの人がケガをし、中には死んだ人もいただろう。そんな事態を批判し、車を否定する人も大勢いたに違いない。しかし、車はその後改良を重ねながら飛躍的に人間社会で増大してゆく。

 一旦、便利と分かってしまった物を人間は手放さなくなり、そんな物から莫大な利益を生み出せることを人は知る。一方、どんなに便利になろうと事件や事故が無くならない限り批判は常に付き纏う。ただ勢力図からいえば前者は巨大、対して後者は小さく、そんな状況がいつまでも続くわけである。

 前者を保守・右翼、後者をリベラル・左翼と分けることもできないことはない。そして、ある意味これが現在の保守・右翼と、リベラル・左翼の力関係を示しているのかもしれない。

 しかし、考えてみれば不思議だ。本来、古臭いものにしがみつきたがるのが保守・右翼で、新しいものを開拓したがるのがリベラル・左翼ではないのか。これは単に物に対してだけでなく、人間の生き方にも関わるはず。

 現在は、科学技術で産み出された発明品と、人間の新しい生き方、その両者がアンバランスな状況にあり、社会が非常に不安定で人々が戸惑ってるように見える。俯瞰的に眺めれば、保守・右翼陣営の方は発明品を積極的に活用し、リベラル・左翼陣営はそれを上手に扱えていない気がする。

 正直、批判を前提にするからリベラル・左翼陣営は時流に乗り遅れてしまうのもしれない。ただ、批判を内包しない科学技術は原発に代表されるように破壊へと暴走しかねず、進歩への盲目は危険極まりないのは確かだ。

 現状を変えるには、リベラル・左翼は最新技術を使いこなしつつ、同時に人間の生き方を常に問い続け、両者のバランスを安定させようとする試みが何より重要と思う。