ピンピンコロリは理想なのか

 人間の平均寿命が伸び、毎年高齢者の人口が増加する現在。さらにそんな状況はこれから数十年間益々顕著となり、人生100年時代が当たり前のように喧伝される。健康で長生きしたいと思いつつ、だからこそピンピンコロリで寿命を全うすることを多くの人が願う。

 最後のギリギリまで自力で生きて、周りの人たちに迷惑をかけずに死にたい。その気持ちは十分過ぎるほど分かるから、私もできるならピンピンコロリで終わりたいと思っている。

 しかし、実際そうはうまくいかないのが現実。高齢になればなるほど病気やケガは付きもので、車椅子ならまだマシ、寝たきりになる可能性は高く、植物人間になったまま何年間も生かされたりするのはザラだ。

 こうして家族や医療機関への負担が増し、国家財政まで圧迫させることを考えれば、ピンピンコロリは理想の終末のようだ。でも、本当にピンピンコロリは素晴らしい人間の終わり方なのか。

 私は一年半前に102歳で死んだ母親のことを思い出す。母親は最後は赤ん坊のように何もできなくなりこの世から去った。母親はピンピンコロリで死んだわけではなく、むしろそれとは真逆の形で人生を終えた。

 母親の身体は年と共にだんだん痩せ細り、手足は小枝のようになり、昔のことも今のことも、周辺のことも親類や兄妹のことも、そして息子である私のことも、全ての記憶を無くし、本当に何もできなくなって最期を迎えた。

 ところで、ピンピンコロリで死ぬとはどういうことか。それはその人が死ぬ直前まで元気だったということ。ならばその人はまだまだ生きたかったに違いなく、元気で明日のことも考えることのできた人が、あっという間にコロリと亡くなるとしたらあまりに無念で、それこそ悔いが残る死に方とは言えないだろうか。

 生まれたばかりの赤子はツルツルの肌を持っているのに対し、年老いた私の母親はもちろんシワだらけになったが、何も知らない、何も分からない、という意味では赤子と同じ地平に戻ったわけだ。人間は赤子として誕生し、人間は赤子になって死を迎える。じつは、これこそが人間の一生としてふさわしいのかもしれない、と私の心情は変化しつつある。