長生きして何もかも忘れる幸福な人生

 中島敦の「名人伝」は私が最も好きな小説の一つ。内容は、厳しい鍛錬を経て弓の名人になった紀昌(きしょう)という人物が、長生きしてやがて何もかも忘れ、最後は痴呆のようになって死ぬまでの生涯を描く。

 自分の技量を自慢したがり我こそが最高、と自惚れる一流を自負する各分野の達人たちも、この紀昌という本物の名人を前にしてその究極の境地に平伏すという話に、私は大いに感動し、これこそが人生と思った。

 技術や技能がどんなに秀でていようと、それを自覚している限りせいぜい一流止まり。超一流を目指さねばならず、それには一流という頂点から降りなければならない。いや、超一流という冠さえ無用、そんなクダラナイ名称などさっさと捨て去り、自分の存在すら忘れるくらいになければならないということだ。

 長生きして最後は何もかも忘れてしまうような人生、それは不幸で哀れであるどころか、むしろ最高に幸福な人生ではないだろうか。

 身体が衰弱、萎み、弱り、脆く、小さくなり、まるで赤ん坊のようになれば、周りから世話をしてもらわなければならず、そのためにはお金や用具が必要なのは当然である。

 今現在、国の予算配分は歪そのもの。人間が人間らしく生きられる社会整備にこそ資本を投入すべきで、役立たずで迷惑千万で、心配事ばかりが増幅してゆく軍備等に大切なお金を遣うなんてもってのほかだ。

 全ての人はスベスベな赤子として誕生し、長生きすればシワだらけの赤子として死ぬ。そういう意味では地球に生きる人間は誰もが皆同じ。ならば、国境や宗教や民族や文化を尊重しつつもそれらに拘る必要はなく、人間同士がお互いに助け合えるような社会システムを世界中で構築せねば。

 口で言うのは簡単、実現は甚だ困難と言われるかもしれないが、従来までの「力で支配」とそれに付随する「金(カネ)と欲望」の価値観を反転させるだけでよい。