あたり前のことをしてるかどうか

 何か新しいことをしたがるのは前向きな人の特性である。特に表現に携わる者(人生とは表現そのものだから、じつは全ての人間に当てはまる)は少しでも前衛的でなければと思う。

 しかし、冷静になり振り返るなら、そもそも新しいこととは何だろう。他者がやっていなかったことを自分が初めて試みる、それが新しいことかもしれないが、その前に、まずは自らの足元を直視する必要がある。

 思うに、新しさを求めるのは重要とはいえ、あたり前のことは基本中の基本、生活の土台。まずは一人ひとりがあたり前のことが持続してできるようにならなければどんな新しさも説得力はない、それを自覚すべきだ。

 あたり前のこととは何か。それは例えば家事や育児のこと。それは日常の炊事、洗濯、掃除、買い物、ゴミ出し、様々な手続き…のようなことである。

 科学の分野でノーベル賞を受賞したとか、芸術の世界で斬新的な作品を創造したとか、あるいはスポーツで新記録を樹立したり金メダルを取ったとか、それらは確かに世間的には大した業績として残るかもしれない。だがしかし、それらは側から見て本当に「優秀」と呼べるのか。

 私はそれら名の知れた過去から現在までの有名人に問いかけたい。あなたは生前、あるいはこれまでに家事や育児をしてきましたか、身の回りの要件は自分だけでキチンと処理できましたか、少なくとも自らしなければという気持ちを抱いていましたか。

 私が東京で会社員をしていた頃、会社のベテランが独身の私にこう問いかけてきた。「自分で飯を作ったり、洗濯や掃除してるのか」、私がそうだと応えると「そんなの結婚して嫁にやらせろよ」。

 当時、そのベテランは私より5歳ほど上で、政治的には非自民党的な考えの持ち主だったが、自分が食べた後、自分の茶碗や皿は洗ったこともなく、それを自慢する素振りだった。根深いところで男尊女卑、非常に古臭い価値観に囚われていたようだ。

 あれから随分年月が経ち、ジェンダー意識の高まりから、表向き男女平等は当然のごとく叫ばれる今日だが、水面下の実態では意識改革が日本ではまだまだ浸透していない。あのベテランは今何をしてるのだろう、今現在も身の回りのことをしない、できないとしたら、あの人の老後は不幸…と想像するのは邪推か。