絶望したほうがマシかもしれない

 「どんな辛い状況にあろうと、人は希望を失わなければなんとかなる」とは一般に流布するフレーズで、私も普段からそう思っている。人は生活を営みながらいろいろ面倒な事に遭遇するけれど、その都度大概のことは切り抜けてなんとか生き延びる。

 お金、仕事、家族、恋愛……日々それらのことに苦しみ悩みながら私たちは生活しており、中にはそれらの苦悩があまりに重く背負いきれずに自殺する者もいるが、しかし多くの人はうろたえながらもなんとか必死で毎日の生活を営んでいる。

 時間が経過することで、どうしていいか分からなかったことも、いつの間にかなんとかなったりして、こうして生きていられるのも人は心の片隅に希望の灯を点しつづけ、決して絶望しなかったからだ…と、私を含めて一般の人は思いたいのだ。

 だがしかし、身の回りの細々したことから視点を移し、もっと大きな世界を視野に入れたとき、果たして心の片隅に希望の灯を点しつづけることに意味があるのかどうか分からなくなる。現在の日本社会の未来を考えれば考えるほど、微かな希望を抱くことがアホらしくなってくる。

 特に、現在の日本政治のあまりのデタラメぶりに、私は希望を抱けない。どんなバカな政治状況でも、自由と平等への目指すべき方向がそれなりに透視できればまだ救いようがあるが、貧困・格差・差別・監視・独裁・戦争…の逆方向へ邁進する政治状況では絶望的である。

 絶望的状況に抗うために、たとえ小さくとも希望の灯を点しつづけたい気持ちは分からなくはない。だが、現在の日本において、残念ながらそれらの希望はいつまで経っても小さく灯るだけで決して大きな炎として燃え上がることはないだろう。

 絶望的状況に抗うために、あえてもっと絶望しよう。絶望するのは「死」を意味するわけではなく、むしろ「生」への第一歩のためだ。生きるために希望を抱くのではなく、生きるためにこそ絶望するのだ。

 小さな希望の灯などは、得てして社会の現実へ妥協してゆくための明かりの役割を果たしかねず、そんな希望の灯などはさっさと消し去ろう。現実よりも先行し、徹底的に絶望すること。絶望こそが新たな世界の礎となるかもしれない。希望にしがみついて悶々とするよりも、さっさと絶望した方が清々しい。