表現の自由を問う

 預言者の風刺漫画を掲載したフランスの新聞社へのイスラム超過激派によるテロ事件は世界中に衝撃を与えた。人々は暴力を糾弾するとともに「表現の自由」を訴えつづけている。

 世界の常識から考えれば、人々の反応は当然といえば当然だ。しかし「先進国」と呼ばれ第三世界を支配しようとする欧米や日本の人々がいくら暴力を糾弾し「表現の自由」を訴えようと、なぜか空しく嘘っぽい。

 「表現の自由」は万国共通の価値観として確立されるべきだし、その共通認識は強者・権力者への批判や風刺ができるかどうか。どんな体制も、どんな政治・経済・宗教も対象から外れることはないはずである。たとえば私たちが生きる日本社会ではどうなのか。

 問題の本質は表現の自由のあるなしではなく、表現の自由を柔軟に拡大する方向に社会が進もうとしているのか、それとも逆行しようとしているのか。残念ながら日本には天皇制や創価学会へのタブーなどが歴然として存在し、批判や風刺をしたくても陣営からの仕返しを恐れ誰もが萎縮する。まずは日本国内から表現の自由を実践しようとしなければ外に対しても説得力はないはずだが…。

 ところで、週刊金曜日最新(1022号)の特集「日本人は、戦争で何をしたか」の「日中戦争1938年」の大量殺人現場における写真やメモはとても貴重な資料だ。これこそアジアへ侵略した日本の軍隊の実態なのだが、こんな当たり前の事実を現在のテレビや新聞のメディアはまったく報道しない。報道したくてもできないのだ。

 虐殺の事実には目をつむり、侵略を「戦争が悪い」という単なる表層的な言論で曖昧にして責任逃れする。日本における表現の自由とはその程度に過ぎない。

 社会を堕落・腐敗させる最たるものの代表が「世襲制」だろう。ともかく世襲は「個」よりも「族」を優先するあまり、個から族への批判を封殺するばかりか、むしろ族は個を弾圧したりさえする。政治家や大企業などにおける権力の世襲を見るたび息苦しく、日本には「ミニ北朝鮮」が数多く林立し、閉塞感が充満するばかり。「族」が支配する社会における表現の自由など嘘っぱちだ。

 フランスで起きたテロ事件から、世界中の人々が訴える表現の自由が主にイスラム世界を対象にするようならとんでもない方向違いだろう。それは自らの内部に訴えてこそ生きてくる。