虚飾に覆われる世界

 自分の裸をしげしげと見つめることがあるだろうか。ふと、そんなことを思いながら振り返ると、自分の裸をゆっくり眺めたことなどほとんどなかったことに気づく。

 さて、どこの家にも鏡はあるに違いないが、全身を写す大きな鏡を皆は持っているのかな。かりに持っていても、素っ裸になって自分の裸をじっくり眺めることをしているだろうか。

 誰もが同じだと思うけど、毎日生活する上で衣類は欠かせず、一人になって素っ裸になるのはフロに入ってるときだけじゃないか。そのフロも、自宅の狭いフロ場に全身を写してくれる大きな鏡などあるわけないし、銭湯にでも行かなければ無理というもの。そんな貴重な銭湯も廃業がつづき、いつでも自分の裸体を見られるチャンスが失われつつある。

 自分の裸を見るのは、じつはとても貴重なことだ。均整がとれて、肌に艶と張りがあって、なんて美しい…と思いたいところだが、自分の裸に惚れ惚れする人は、おそらくほとんどいまい。それどころか、自信がないから、醜いものに目をそむけたいから、だから自分の裸を直視できないんだよ。

 彫刻家ジャコメッティが創作した人物像はどれもが針金のように細長い。それらからは、いらぬものが削ぎ落とされ、性別も不明、ただ存在していることだけに意味があるようで、しかしだからこそ、人間の普遍性を見せつけられているような気がする。人間とは何か? を突き詰めると、ある意味、ひとつの答えとしてジャコメッティの人体彫刻像に到達するのかもしれない。

 世の中、何もかもが嘘っぽい。世の中、何を信じていいのか分からない。ならば本物を知るもっとも身近な方法として、自分の裸を見つめることだ。全身が写る鏡を用意して、自分をさらけ出し、じっくり鑑賞してみるがいい。世界の縮図、究極の姿とは、すなわち自分の一糸まとわぬ裸じゃないのか。

 贅肉でダブついた、あるいはやせ細ってガリガリの裸体を眺めていると、虚飾に覆われた、または虚飾で覆い隠そうとする世界を透視できるかもしれない。すると、少しは安堵できる……いや、さらに絶望の淵に立たされてしまうかも…。