「私」とは何だろう?

 「私」という一人称で語ることは重要で、私を大切にできない人が他者に対しても大切にできない…とか、公的な客観性より私的な主観性こそが表現や報道には重要…とか、いろいろ見たり聞いたりして、まったくその通りだと思うが、しかし、それらの主張はあまりにまともであるが故に物足りなさも感じる。

 肝心なのは「私」がどちらの方を向いているか。じつは「私」とは頼りなく不安定で常に右往左往する存在であり、そんな「私」はいとも簡単に何かに染まったり掠め取られてしまう。そんな脆弱な「私」が私を維持するためにも、だからこそ方向性が問われる。

 国や企業や組織、そして人種や宗教に隷従するだけの私にならないため、私の内部では常に他者を意識しつづけなければと思う。つまり私自身の他者性が問われる。私であると同時に他者でもあるということ。この他者に限界はなく無限の領域に広がりつづける。なぜなら他者とは一人ひとりの個人であり、過去・現在・未来を貫くから。

 「私」にこだわるあまり限界の領域に自ら埋没しないよう、十分気をつけなければならない。しかし、残念ながら日本は相変わらず「私」より「公」が根強く、普通の「私」すら未だ確立されておらず、それで「私」にこだわりたくなるのだろうが、もっと足元と先を見ることだ。

 対等な人間関係を築くことは口で言うほど簡単ではない。そのもっとも大きな妨げになるのは、人それぞれが持ってる「私」というプライドなのだと思う。学歴、肩書き、資格、社会的地位…それらはどんな人にもついて回るし、社会を生き抜くためには必要かもしれないが、しかし、いざ他者と対面するとき本当はそれらを消去すべきだ。

 ここで言う「消去」とは人間的に裸になるということ。だが、これが甚だ困難であり、人間として最も困難なことかもしれない。それができないから、いつも「私」は相手を人間性よりも着飾った服だけを見て判断してしまう。それでは本質を見誤ることになる。そうならないため、まずは自らの虚飾の服を脱ぎ捨て、自らが裸にならなければ。

 心や頭に何重も纏わりついた虚飾を脱ぎ捨て、自ら「裸になった私」を直視する。それはある意味とても恐ろしいことかもしれず、でもそれは人間として最も勇気ある行為だ。だからこそ、それができた次の段階では人間や社会に対する見方が大きく変わることは間違いなく、新たな世界を目指そうとする力の源泉になるだろう。