天才と凡人の違い

 「天才」という言葉、あまり軽々しく使いたくないが、巷ではずいぶん流行っている。ちょっと何かに秀でると「天才的な〜」とか、スポーツや芸能で「○○の天才」とか、書店を覗けば天才の二文字がついたタイトル本がやけに眼につき、ようするに世の中は天才だらけだ。しかし、冷静に見渡すなら、真の天才などポコポコ出てくるはずがない。

 歴史上、科学や哲学や芸術の分野で大きな業績を残した人物は確かに天才的だったかもしれない。近代以前では、ごく少数の恵まれた環境の人々に資材や教育が集中していたから、学ぶ機会もヒラメキの余裕も彼らが独占できたであろうことは想像できる。近代以降は、人口が増加し、表現手段が多様化し、社会は分業・細分化され、そんな中から傑出した人物が出現しにくくなったことは間違いないようだ。むしろ、特別な天才など現れない方がバランスを考えれば世のためなのかもしれない。

 私が好きな詩やジャズの分野でも、天才と呼んでもおかしくない人物は確かにいた。あくまでイメージに過ぎないが、詩人のボードレールランボーは天才にふさわしいし、古くはゲーテシェークスピアなども突出していて、彼らは天才を超えた巨匠である。モダン・ジャズの世界においては、エリック・ドルフィーセロニアス・モンク、そしてチャールズ・ミンガスなどは天才的だと思う。

 「どんなタイプが天才なのか」と天才を型に押し込めようとするのは矛盾であり、だから逆説的に言えば型にはまらないのが天才なのだ。少なくともアカデミックな領域から天才は出てこない。これは昔も今も変わらず、型を重視して何でもかんでも指導したがる現代の管理社会から天才は生まれることはないし、生まれるはずがない。天才は内側からは決して育たず、予期せぬうち外側から突然現れる。

 天才には奇人・変人が多かった。当然だろう、一歩も二歩も先んじた彼らは時代の風潮に嫌でも逆らわざるをえず、非常識極まりなかったからだ。

 私がときどき通うジャズバーのママがさりげなく語ってくれた。

 「凡人は子孫を残すけど、天才は作品を残すのよ」

 なるほど、と思う。