価値観の単純化

 ずいぶん以前から「現在は価値観が多様化して…」との表現を数多く目や耳にするようになった。十人十色と昔から言われているように、いろんな考え方や生き方があるから人それぞれかもしれないが、しかし本当に価値観は多様化したのだろうか。

 旧ソ連が消滅し冷戦構造が崩壊してから資本主義が世界を支配した。新自由主義が暴走し、実態を伴わない金融経済がのさばり、ついにリーマンショックのような破綻を生む。ヨーロッパ経済はガタガタとなり、米国も日本も国債を大量に発行して借金は膨らむばかり。格差が拡大する中、世界全体が財政危機という病魔に冒されてしまう。

 今現在、人々は資本主義に翻弄されながら生きている。「金(カネ)は無いよりはあった方がいい」と人々はこれまで以上に金の算段ばかりするようになってしまった。表向き、価値観は多様化したと言いながら、富んだ者も貧しい者も実態はカネモウケへの路線を走り、結果として一握りの勝者と大多数の敗者に選別されているに過ぎない。

 もちろん、カネモウケ主義に疑問を抱き、自給自足、自然と共生しながらスローライフを貫こうとする人々もいるが、しかしそれらはあくまで少数派で主流からはほど遠い。

 スポーツの世界も典型的。オリンピックを頂点に、いろんな競技の大会が盛んだが、結局はスポーツに携わる誰も皆が勝利至上主義に陥っている。要は勝利して有名になり脚光を浴び、ついでに金(カネ)を稼ぐこと。体罰が問題となるのも、勝利至上主義という一方的な価値観にハマって抜け出せないでいるからだ。

 確かに種類は多くなった。産業構造も変化し、情報技術関連が時代の先端を走り、商売のあり方も複雑である。スポーツも、例えば日本ではかつての野球や相撲だけでなく、サッカーを始め規模の大小はあっても様々な分野でプロ化が進んでいる。だから手段が多様化したことは確かだ。だが世間では、表現手段の多様化を、さも価値観が多様化したかのように勘違いしている。

 いくら表現手段が多様化しても、カネモウケと勝利至上が目的に過ぎないなら、それはじつに狭苦しい窮屈な世界ではないだろうか。価値観の多様化なんて幻想であり、本当は価値観の単純化が進行し蔓延しているだけではないのか。