介護とスポーツの相似点

 インターネットや新聞・テレビなどから介護に関する事件報道がときどき飛び込んでくる。「60才の息子、90才の父親を殴り殺す」「64才の娘、89才の母親を絞殺」…似た様な事件が非常に多く、そのほとんどが介護疲れからの犯行である。

 介護現場の凄惨さは一般の人々の想像を遥かに超えている。介護に携わる多くの人々が事件になる一歩手前を行き来しているに違いない。それらの事件からは、息子や娘が年老いた親を「自分の力でなんとかしてあげたい」という気持ちの強さが閉ざされた狭い空間から滲み出てくるかのようだ。それが事件の大きな要因の一つではないかとさえ思う。

 「なんとかしてあげたい」というのは子供が衰えた親に対する素直で正直な気持ちであり、だれも非難される筋合いのものではなく、それはむしろ賞賛に値する美しい姿勢である。しかし一方で、その気持ちが強すぎるととてつもない重荷を背負うこととなり、日々を過ごすうちやがて耐えきれなくなる。

 ところで、現在世間を騒がせるスポーツ界における暴力問題だが、そこにも「なんとかしてあげたい」という監督やコーチの選手に対する気持ちがイビツな形で現れているかのようだ。「強くなってほしい」「一番になってほしい」「金メダルを取ってほしい」それらの気持ちが強すぎて一方的な人間関係に陥ってしまったのではないだろうか。

 介護する側とされる側、指導する側とされる側、分野は違うが人間関係の構図は本当によく似ている。殺人や暴力など悲惨な結果を招かないためには人間関係を見直したい。する側とされる側とでは、する側が主となり、される側が従にどうしてもなりがちだが、本当は逆にならなければ、と思うのだ。

 主人公はいったい誰なのか? それは身も心も衰えた父や母であり、それは力や技術が未熟な選手たちである。介護したり教えたりする息子や娘や監督やコーチ、それらはあくまでも脇役でなければと痛感する。弱者こそが主で強者とは従なのだ。それを徹底しなければバランスが崩れる。

 私も94才の母親と同居しているので事件報道を眼にする度、とても他人事とは思えず、明日どうなるか分からない日々を過ごしている。母親が主役で私は脇役であることを決して忘れないようにしたい。