社会構造に潜む暗部

 日本大と関西学院大アメリカンフットボール定期戦で試合中における日大選手の違法行為が発覚、さらにその後の日大の監督やコーチ、及び学長の謝罪記者会見が火に油を注ぐような状態となり大問題に発展している。

 プレーを終えた関学選手の背後から日大選手が激しくタックルして相手を怪我させたわけだが、確かに、ビデオを見る限り、これはスポーツではなく意図的な暴力行為だ。試合に勝つため、そして今後の展開を有利にするため、相手選手を潰そうとしたことは明らか。

 思い出すのは、もう26年も前の高校野球「星稜 対 明徳義塾」の試合。星稜の4番松井秀喜選手は5打席連続敬遠され、まったく勝負させてもらえない。この試合で、明徳義塾は勝つため徹底して松井選手をマーク。高校野球らしくないと、当時大問題に発展、マスコミが大騒ぎした。

 アメフトの日大と高校野球明徳義塾は試合形式や状況が違うのでもちろん同じではない。少なくとも明徳義塾はルール違反はしてないし、相手に怪我もさせていない。とはいえ、私はこの両者に「勝ちにこだわり過ぎ」という共通の意識を見る。勝つことを最高の価値観にしてしまうと手段を選ばなくなる。

 スポーツの最高の価値は勝負を超えたところ、それは安易に言葉にできない崇高な領域に存在するはずだ。勝負にこだわり過ぎるスポーツは、文化としてスポーツの価値をどんどん下げてしまう。

 日大アメフト部の暴力違反プレー問題はまだまだ尾を引きそうだ。これは単に日大だけの問題ではないし、アメフトという競技の問題でもないし、スポーツという枠を超え、社会全体に蔓延る根深い問題を暗示させる。

 指導者と選手、上司と部下、親と子、先生と生徒、そして政治家と官僚…力を誇示したがることで人間として対等な関係が崩れ、命令に従わざる得ないアイヒマン的人間を形作ってしまう社会構造が問われる。要は軍隊と同じ、相変わらず軍隊的思考が組織に蔓延して悲劇を量産する。組織とは何だろうか。そして、人間とは、個人とは…。

 スポーツという美名に隠れ、現在のスポーツは殆どが偽物じゃないか? オリンピックも、ワールドカップも、〜世界選手権も規模が大きくなればなるほど商業主義と勝利至上主義、そして軍隊のような統率。フィールドやグラウンドの外側こそ治療を施す必要がある。スポーツの枠を超え、その一番手に現在の安倍政権が作り出す政治形態にメスを入れ大手術しなければならない。