じつは、ちっとも変わってない

 大袈裟な表現を人は好むらしく、「劇的に変化」とか「様相が一変した」なんて言葉をよく見聞する。特に歴史上において、有名な出来事の以前と以後とを区別したがる。日本だけでも「本能寺の変」「関ヶ原の戦い」「明治維新」「太平洋戦争」等々、人々はそれらの以前と以後との違いについて語りたがる。

 戦後では「東京オリンピック」「石油ショック」「連合赤軍事件」「バブル崩壊」「オウム真理教事件」等の以前と以後とでガラリと雰囲気が変わったと識者は口にするし、21世紀に入って「アメリ同時多発テロ」が世界にショックを与え、日本も大きな影響を受けた。テレビやインターネットの出現による変化も絶大で、それらの以前と以後とで人生観や世界観が一変したとさえ言われる。

 直近では、昨年3・11の災害が価値観を変える分岐点になったとは多くの人々の認識だ。インターネットで様々な記事や動画に接しても、日付が2011年3月11日以前のものだと、まるで無意味かのように素通りしてしまう。

 あまりに目紛しく変貌しつづける社会情勢に身を起きながら、これから先をどうして生きようかと途方にくれる。……ところが、野田首相大飯原発3、4号機の再稼働容認発言を耳にして、そのあまりに空疎な内容に、ふっと我に返った。そして気が付く、なんだ「ちっとも変わってない」じゃないか。

 3・11以前と以後とで価値観はガラリと変わったはず…、確かに多くの人々の原発依存への意識は変わり、各地で反対運動やデモは今も盛んだ。しかし、残念ながら政治の中枢がまるで変わっていないことが明らかとなり、中央の政治だけでなく、地方の県や市や町や村の行政も本質的に変わらない。そして、彼らを支える民衆もじつは変わっていない。

 あらためて自分自身を顧みる。私は変わったのだろうか。変わったと思い込んでいるだけで、じつは根本において以前のままではないのか。その変わろうとしない根本とは一体何か? 変わるとはどういうことか? 変えるためには、変わらないことこそを前提に考え判断しなければならないのではないか? 「変わった」と安易な思い込みは私たちを脆弱にさせるだけではないのか?