3・11後の世界

 大震災と原発事故から丸一年が経とうとしている。多くの識者が2011年3月11日以前と以後とで世界は変わったと訴えるが、確かに3・11以後は価値観が変わったし、変えなければならないと思う。特に原発に関しては見識がガラリと変わった。従来の原発のイメージは「安全で、クリーンで、コスト安」だったが、事故後詳細に調査すればするほどそれは「危険で、汚くて、コスト高」が明らかとなった。

 平和利用が名目の「原発」だが、実際はいつでも核兵器に転用できる技術を磨くための隠れ蓑であったことは良識ある専門家が指摘する通りで、「核兵器を持ち主導権を握る」と前世紀の馬鹿げた妄想に囚われた輩が政治家を中心に相変わらず多い。そんな意見が幅を利かせるようでは核兵器原発には断固反対するしかない。この狭い地球上、人間同士が対立して極悪危険物を撒き散らしたい発想には救いようがない。3・11以後の価値観とは何か? を問えば時代の方向性がハッキリしてくる。

 ところで、原発に関しては二つの見方が必要だ。ひとつは科学技術の結果として原発そのものの是非、もうひとつは原発を造るまでの経緯。この両面からの視点は欠かせないが、特に後者の「経緯」は大切で、これは原発に限らずあらゆる物作りにとって不可欠であり、特にそれが大規模になればなるほど重要度は増す。

 人間は自分たちに都合のいい「美しくて気持ちのいい」ものばかりと付き合えるわけではなく、ときには嫌なものや危険なものとも共存しなければならない。例えば、毒物の代名詞のような「青酸カリ」は人体には有毒でも工業的にいろいろ利用され多くの分野で社会に役立っている。「核」や「原子」についても同様に物質の究極的存在を無視するわけにはいかず、これからも前向きに研究しづづける必要があり、だからこそ手順が欠かせない。

 世界の現状は民主主義からはほど遠い。残念ながら民主主義は掛け声ばかりで、そんな未熟な世界の至る所で核兵器原発が暴走すれば人類は自ら破滅の道を歩む。人間は危険物とも付き合わなければならないからこそ、それは力を誇示するためにあるのではなく、逆に、いざとなったとき人類を殺戮から救済するものへと転化すべきだ。

 3・11以後は人類が共存共栄するため危険物の取り扱いについて、それをどうすべきかが問われ試される。だから公開と精査による、徹底した民主的運営が世界に求められる。