個人の哲学

 安倍晋三が総理大臣に就任してからというもの、瞬く間に日本社会は右傾化、本当に窮屈になってしまった。戦後70年間何とか維持してきた表向きの民主主義も、今や剥がれ落ち、差別が露骨となり、軍靴の音は高鳴るばかり。

 なぜこうもあっさり激変したのだろう。それは政治家やメディアの責任ばかりじゃなく、やはり私たち一人ひとりの意識の問題が一番大きい。要は私たちが無関心で無責任で無気力だったからに他ならない。

 一人ひとりの人間が体たらくなのは、自己を見つめる眼力が弱く、誰もが自分を偽りながら生きてるからで、その偽りにメスを入れ、自ら覚醒しなければ同じ過ちを繰り返すだけだ。戦争(侵略)に加担したくせに騙されたと被害者ズラしてきたのは一体誰だったろう。

 ところで、私を含め現在中高年の世代が100歳近くまで生きると仮定するなら、私たちの生涯はちょうど20世紀と21世紀をまたぐ形となり、それはパソコンやスマホタブレットなどが開発され、インターネットが急速に進歩した大変革期と重なる。

 大変革とは大げさかもしれない、いつの時代も変革が激しいからだ。ちょうど100年前の19世紀から20世紀にかけても凄い時代で、映画や飛行機が発明され、世界観がガラリと変わったことが想像できる。今現在はインターネット以前と以後との端境期と言ってもいい。

 しかし映像も飛行機もコンピュータも、それらは技術に過ぎず、人類の価値観を本質的に変えるまでには至らない。人類が本質的に変わるとはどういうことかと言えば、国家・民族・宗教と個人の関係が見直され、世界と個人が中心になるということだ。

 そのためには技術だけでなく、なんといっても哲学が必要、国家や民族や宗教を超える思想が求められる。個人の自由と平等、そして世界全体の平和と安全と統一、この両端を一人の人間として自己を見つめる眼力を鍛えながら思考しつづけることが何より肝心である。