忘れないために

 私たちにとって、記憶が薄れたり、忘れてはいけないことがたくさんあるが、最近では何と言っても東電福島原子力発電所の大事故だ。26日(土)には福島第一原発4号機の内部が初めて報道機関に公開され、鉄骨がむき出しになった建屋と、シートに覆われた大量の使用済み核燃料が残るプールの写真や映像が配信された。

 細野豪志原発担当大臣や東電関係者は安全性をアピールしていたようだが、専門家に言わせると「地震の揺れでプールが崩落し燃料の冷却が止まれば、溶けて大量の放射性物質が拡散する恐れがある」とのこと。以前より指摘されているとおり、首都圏3000万人の命運は4号機がどれだけ持ちこたえられるかにかかっている。

 日本の本当の現実を思い知らされ、あらためて日本社会の脆弱さに震えがくる。この「大量の使用済み核燃料が残るプール」を見るだけで、スカイツリーとか、オリンピックとか、そんなことで騒いでる場合じゃないだろうとツッコミたくなる。

 ところで、原子力行政に携わってきた科学者たちの多くは、こんなギリギリの状況にもかかわらず原発を再稼働し、さらに推進させようと画策しているらしい。科学者とはいったいなんだろうかと考え込んでしまう。

 「集団催眠」の記事にも書いたが、頭の良い人は己の能力を発揮したいがため道徳や倫理の道を踏み外すことがあるらしい。原発を擁護し推進したがる科学者たちを見ると映画「パヒューム〜」の主人公とダブる。じつは、原発安全神話こそが、現代における大衆を惑わす極上の香水であり、私たちは長年に渡り集団催眠にかけられていたことが分かった。

 原発に携わった科学者たちは名称に反してちっとも科学的ではなかったことが事故から見えてきた。科学者たちは自己暗示をかけ原発安全神話に埋没し、己の能力を発揮するために道徳や倫理を無視、人のため科学のためではなく、カネや地位や顕示欲のために自らを売ったのだった。

 原発事故の事実及び現状を忘れてはならないことはもちろんだが、同時に科学者が非科学的になる社会のプロセスを直視するとともに、現状に蔓延する暗示や催眠からの解放のため、今こそ科学的で論理的な取り組みが必要なのだと痛感する。