想定外は繰り返される

 「想定外」という言葉、原発事故以来すっかり一般の人々にも馴染んだが、「責任逃れ」という意味合いで捉えられることが多く、確かに世の中の事件や事故を何でも「想定外」にすれば大変な混乱になるだけで安易に口にすべきではないだろう。だがしかし、地球の歴史、いや人類の歴史だけを振り返っても、じつは常に「想定外」が連続して発生していたことは間違いない。

 責任逃れで想定外を多用されてはたまらないが、これから先、人間社会がどのように発展・進化しようとも「想定外」は常に起こりうる、という覚悟は抱きつづけるべきだ。問題は、そんな予期せぬ想定外の出来事が発生したとき、人間社会への被害が最小限に食い止められるかどうかである。

 地震津波、テロ、紛争、人為的ミス・・・それらをある程度は予想できても、それらが幾つも重なったり、それら以外の想像を絶することが時間や場所を選ばず発生するかもしれない。いや、必ず発生する。

 原発が事故を起こしたらどうなるか。東電福島第一原発がものの見事に証明したように、予期せぬ想定外を覚悟すればするほど、だからこそ人類は原発など作るべきではないのだ。あまりに被害が甚大でコストがかかることを私たちは原発事故で実感した。最新技術を駆使し、ありとあらゆる事象を想定しようとも、この先「想定外」は必ず起こる。

 人類の歴史とは、見方を変えれば「失敗の歴史」とも言える。その大失敗の究極的な形態として20世紀の二つの世界大戦があったのかもしれない。もう二度とあのような大規模戦争を人類は起こしてはならないが、もし21世紀に入った現時点で繰り返されるなら、それこそ人類は滅亡する。

 人間同士の諍いはこれからも繰り返される。だが、失敗や喧嘩や紛争、そして事件や事故がいくら繰り返されても社会全体の安定をなんとか保たなければならず、そのためにはたとえ想定外が発生しても、それが極力小規模範囲に収められるかどうかが問われる。

 不完全で未熟な人類が発明した原発核兵器は、少なくともこの狭い地球上においては失敗の産物の典型だ。もしそれが活かされるとしたら地球の外でしかない。