ダルビッシュを見ながら思う

 北海道日本ハム・ファイターズからテキサス・レンジャーズへ移籍したピッチャーのダルビッシュ有が米国のメジャーリーグで活躍する姿はとても小気味好い。同じ日本人として誇りに思う。まだ始まったばかりだが、異国の環境に慣れるにしたがい、今後益々の飛躍が期待される。成績次第では野茂やイチローを凌ぐ強烈な存在になりそうだ。

 …と、ここまで書いて、自分に妙な違和感がある。「日本人として誇り」なんて本心なのか。もちろん正直な気持ちだが、ただ嬉しいだけではない冷静な自分もいる。

 野球に限らず私はスポーツ全般が好きで、今夏にはロンドン・オリンピックも控えて興味津々だ。しかし、かつてのスポーツに対する強い関心は次第に薄れてきた。ダルビッシュに注目するのは、個人の存在感に惹かれるからだ。これからダルビッシュが活躍すればするほど野球からは遠ざかると思う。

 イチローがメジャーで大活躍した最初の2〜3年は野球像にも興味を抱いたが、今やイチローに対してすら心躍ることはなくなった。イチローの成績が悪くなったからではなく、相変わらず高水準を維持しつづけるイチローという存在は特別ではなくあたり前になってしまったからだ。

 日本人うんぬんと口にすること自体が私にはどうでもいい気持ちにイチローはさせてくれる。これこそがイチローの本当に凄いところで、ダルビッシュもそうなる可能性がある。

 ところで、オリンピックの盛り上がりは本来の主旨から相当ズレてる。グローバルな時代にもかかわらず国家が全面にのさばり出てオリンピックは国別メダル獲得競争の場と化してしまった。これは偽のグローバリズムで矛盾そのものだ。国の概念を超越すべきオリンピックのはずが、国家に利用されるオリンピックに堕落したのだ。

 それでも、オリンピックに出場する選手ひとり一人には期待したい。メダルを取ろうと逃そうと参加の意義と真剣勝負から個人の力で国家を超越してほしい。金の出所や周囲の環境などを知れば知るほど選手個人の立場は弱いことが分かる。選手は活躍することで特別扱いされるかもしれないが、少なくとも私は選手を特別に視ない。国家は個人を利用したがるが、逆に個人こそが国家を超えられる。

 さて、ダルビッシュの登板が待ち遠しい。三振の山を築いて今度は完封勝利だ。