影響を受けるということ

 これまでの人生で自慢できるほどではないが、いろんなものを見て、聞いて、読んで、触れてきた。それぞれ濃淡の差はあれど、多くのものから私は影響を受けてきた。中でも特に書物からの影響は大きかったと思う。

 何をやってもうまくいかず、金もないし友人もいない、孤独でウジウジしてばかりの20代の私には映画と書物だけが救いだった。いくら好きとはいえ映画は毎日鑑賞できない。でも読書なら図書館から借りて金もかからず時間も潰せる。読書だけが唯一の慰めだった。

 なるべく多くの書物に接したかったが、読むのが遅い私には限度があり、そんなにたくさん目を通してきたわけではない。それでも書物の中から多くの人物を発見し、多くの作品を知った。もっとも影響を受けた特定の人物と作品を挙げることなどできない。何人もいるし作品も多種多様だ。ただ、いまは寺山修司の名前と作品について述べたい。

 寺山修司は有名だが今の若い人たちにはピンとこないかもしれない。それでも彼の創造した短歌や詩やエッセイや演劇や映画は、現在も、そしてこれからも特異な領域を確保しつづけるはずだ。じつは、私は彼の演劇をひとつも観たことがなく、数多くの作品のうち接することが出来たのはエッセイと映画くらいである。そんな私がエラそうに寺山修司について語る資格はないが、それでもやはり私にとって彼は重要な人物のひとりである。

 「書を捨てよ、町へ出よう」をはじめ多くのエッセイ・評論・雑文を寺山修司は残したが、その大部分を私は読んだと思う。そのどれもが面白く刺激的だった。読んでいるうちにクソ真面目で視野が狭く堅物の私がどんどん溶解して異次元へ吸い込まれるような感覚になっていった。私が寺山修司から学んだのはなによりも「柔軟」であること。

 わずか47歳で死去。疾風のごとく時代を駆け抜けた寺山修司の何かのエッセイで彼の言葉「生き急ぐ」がいつまでも印象に残る。そうだ、寺山は生き急いだ。しかし私は寺山のように「生き急ぐ」ことはしない。私も年齢を重ね、それなりに経験を積んで、ある程度自分というものを知っている。私は寺山とは逆に「人生を遅らせる」。他人が10年で出来ることを私は30年かけてやるだろし、いや40年かけてもいいとさえ思う。

 影響を受けるということは、真似をすることではない。自分を知り、個性を発揮することが大切なら、私は寺山修司から十分に影響をうけた。