口こもる子供たち

 口こもる子供たちがいる。グズでハッキリしないウジウジした子供たちのように見える。じつは彼らは心の中で必死に何かを訴えようとしているのだが、うまく言葉にできない。だからしどろもどろになってしまう。でもどうか大人たちよ、勘違いしないでほしい。グズでハッキリしない子供こそが深く考えようとしているのだ。逆に、物ごとにハキハキと返事ができテキパキと上手にこなせる子供を見たら、むしろ疑うべきで、そんな子供は大人に媚びて目立とうとしているだけかもしれない。

 ところで、言葉はとても大切だ。しかし言葉という手段は、決して言葉にすることのできないもっと大切なものを暗示するために用いられるのが本来の目的なのだ。

 「愛」とか「自由」とか「平和」とかを口にするのは簡単だが、しかしそれらの真の意味を問うならだれも正確には答えられないだろう。愛や自由や平和が連呼された途端、それらの言葉の周辺にポッカリと穴が開いて、白けた虚しい雰囲気に包まれる。

 前々回の「神や仏」についても、さらに以前の「器」に関することでも、肝心なことはどこにあるのだろうかと疑問を呈し自分の意見を述べてきた。そして、ちょっと考えるなら、私を含めて誰もが至極あたり前のことに気づかされる。みんな何となく分かっている。大切なことは簡単に口にしたり形に表すことなどできないことを――。ところが、そんなあたり前のことが毎日の生活を送るうちに忘れ去られ、いつの間にか派手で目立つものばかりが重宝されてゆく。

 さて、身の回りにはおとなしい目立たない子供たちがいるだろう。学校の教室には必ず何人かいるはずだ。おそらく彼らは幼くして早くも大切なことを感じている。ただ、その豊かな感受性を理性的にまとめる表現手法が身に着かずどうしていいか分からないのだ。どうか彼らこそを暖かく見守ってほしい。おとなしい目立たない子供たちこそ、将来の社会の担い手になる可能性がある。それは十分にあり、周りからの何気ない励ましが彼らを勇気つけることは間違いない。