なぜ「フン」で「クソ」ではないのか

 テレビのニュース番組でアナウンサーが「〇〇は鳥のフンによる〜」と喋っていたのを聴いて、ふと気になった。全体の脈略から詳しいニュースの内容は忘れたので何ともいえないが、アナウンサーはなぜ「クソ」とは言わず「フン」と発音したのか心に引っかかったのだ。「フン」は上品で「クソ」は下品だからか。念のため辞書で調べるとフンもクソも同じ「糞」という漢字で、音読みと訓読みの違いに過ぎず意味は同じだ。鳥や獣などの動物の場合はフンで、人間のときはクソなのだろうか。

 井戸端会議とは違って公共の場で「クソ」とはさすがに言いにくく、現状では下品と判断されても仕方ないかもしれない。しかし「クソ」という単語そのものが下品かどうかは別問題で、単語そのものに上品も下品も備わっているわけではなく、意味合いはあくまでも単語に込められた感情と文脈から判断されるべきだ。

 だからこそ私が気になるのは、なぜ「〇〇は鳥のクソによる〜」と公共の場で普通に喋れないのか、ということ。それは「クソ」と言いにくい雰囲気が世間を覆っているからで、なぜそんな雰囲気が覆うのかを問わなければと思う。「糞でも食らえ」とか「糞も味噌も一緒」とか、クソは世間一般によく使われているはずだが、しかし言葉は時代とともに変化するので、そのときは一般でも時代が変われば廃れるであろうことは分かる。

 1957年の日本映画に「気違い部落」という松竹の作品があった。キネマ旬報のベストテン6位に入っている。公開当時は平気だったが今現在は「気違い」も「部落」も公共で使用できない。それは差別用語だからで「めくら」も「つんぼ」も「びっこ」も同様の扱いだ。あらためて考える。なぜ、汚いとか、下品とか、差別用語だからと区別されるのだろう。繰り返すが単語そのものに、奇麗も汚いも、平等も差別もないはずだ。

 アナウンサーが「〇〇は鳥のクソによる〜」と喋ることもできる社会に私はおおらかさを感じる。差別解消のためにも全体が窮屈になってはマズイ。単語そのものが標的にされるのではなく、人間の感情がこもる言葉の文脈や背景をもっと吟味しなければと思うのだ。