砂上の楼閣

 7人も死亡者が出た群馬の関越道で起きた高速ツアーバス事故から、全国の旅行業者とバス会社の力関係や運転手の過酷な勤務実態が明らかになった。事故が起きて初めて気づかされることが多い。それにしても非正規社員が増加する一方で、低賃金と長時間労働を強制しながら社員を辞めさせない悪徳業者も多くあり、矛盾に満ちて劣悪な労働環境が蔓延している。

 最近のAIJ投資顧問による年金資産消失問題もそうだが、何といっても昨年の原発大事故が象徴しているように、いろんな事件や事故を通して見えてくるのは、日本社会が表向きは「豊か」で「先進国」と呼ばれようと実際の基礎部分は弱体化して「砂上の楼閣」に過ぎないことだ。

 ところで私の母親は93歳である。認知症だが今のところ身の回りは最低限自分ひとりで出来るし、熱心な仏教徒でもある。毎日、神棚と仏壇に供え物をして手を合わせている。神にも仏にも無関心な私は母親と正反対とはいえ、じつは高齢者が神棚や仏壇に向かうのは心と身体を刺激してある意味ボケ防止になるかもしれず、それはそれでいいと思っている。命令や強制を他者に向けない限り人は何を信じようとかまわない。

 しかしながら私は、神棚や仏壇に手を合わせる母親の姿を見ていると、なんだか妙な気持ちになる。それは、かりに本当に神や仏がいるとしても、少なくとも神棚や仏壇と呼ばれる場所にいるとはとても思えないからである。神棚や仏壇や、そしてお墓も含めて、それらは生きている人間が勝手に作った「物」に過ぎず、人知を超えた神や仏という存在が人間の都合による「物」に従うはずがない。

 神や仏を信じようと信じまいとどちらでもいいが、もしそれらが存在するとしても、神棚や仏壇やお墓や、さらに寺院や神社や教会やモスクに存在するはずがない。そんな特別な場所や高所には存在しない。私たちの足下、一番低いところに存在し、じつは私たちは神や仏を踏みつけていると捉えるべきだ。神や仏を敬わなければならないのは、私たちに踏みつけられながらも私たちを無言で支えてくれているからなのだ。

 手を合わせる方向が逆なのである。上方の特別な権威ある場所を大切にするのではなく、下方に広がる、あたり前の平凡な場所こそを大切にしなければならない。問題は私の母親だけではない。社会全般が向き合う位置と方角がまったく逆になっている。これこそが「砂上の楼閣」を築いた大きな原因のひとつであり、ひとり一人の人間は自らの心に問いかけなければならない命題だと思わずにはいられない。