人間の変化

 若い時分は反抗的で手のつけられない不良だったのが、成長して大人になった途端がっちりと体制側に組み込まれたり、また若い頃はちっとも目立たなかったのに、年を重ねるごとに存在感を増し大きな仕事を成し遂げたりする。男性でも女性でも人間なら年齢とともに変わる。しかし、ただ変わればいいのではなく、変化の中身が問われる。

 文学や美術や映画などの芸術表現は、特に変化が目立つ分野だ。若い頃はたとえ荒削りで完成度は低くても変革のエネルギーがほとばしり魅力的な作品を産み出したのに、中高年になると完成度は増すが中身は薄くガッカリすることが多くなる。

 小説家など70歳を過ぎて人生への講釈を垂れるようになるともうダメだ。東山魁夷平山郁夫のような画家も晩年の絵はただキレイなだけで平板そのもの。黒澤明の映画も白黒の時代からカラー作品になって急につまらなくなった。ようするに、「大家」と呼ばれ外見的な地位の上昇と反比例するかのように中身は堕落の底へと転がり落ちてゆく。

 確かに、体力の衰えとともに表現力も衰えるであろうことは理解できる。しかし、年とともに人間は保守的になると決めつける必要はなく、年を重ねるに従い革新的になる方法を探るべきで、探ること自体が革新の道へとつづくはずだ。

 文豪ゲーテは80歳を過ぎてもなお20歳そこそこの女性に恋を打ち明け顔を赤らめたというし、また葛飾北斎も80歳を過ぎてなお女の股ぐらを覗き込んでは傑作を描き続けたらしい。以上は私の勝手な想像だが、しかしゲーテにも北斎にもそんなイメージを喚起させる雰囲気がある。

 誰もがゲーテ北斎になれるわけはないが、しかし有名・無名はともかく人は安楽椅子に座ることを目指すべきではないだろう。安楽椅子に腰掛けた途端、人は一気に老け込むに違いない。人には立ちつづけようとする緊張感が必要だ。

 フランスの思想家ボーボワールが「若い女性は美しい、しかし年老いた女性はもっと美しい」と言った。誰もが美しくなれるわけではなく、大概の人は年とともに醜くなる。ボーボワールの言葉の真意は説明するまでもない。