安楽死

 あまりにデタラメな政治・経済状況がつづくので主張したいことは山ほどあるが、たったひとり社会の片隅で文句を連ねても現状はなんら変わらず、ただただ虚しさばかりが募る今日この頃。そんな中、まったく別の領域でとても興味を抱かせるニュースが目に入って来た。

 少し前インターネットで目にしたときから既に私の脳裏にインプットされていたが、昨日(日曜)の朝刊(北陸中日新聞)に取り上げられていたので、再び大いに関心を抱くことに。

 「104歳 豪の科学者 安楽死」。記事の中身を引用すれば「安楽死を希望していた百四歳のオーストラリア人科学者が十一日までに、渡航先のスイスで致死量の薬物を注射し死亡した。最後の食事に好物のフィッシュ&チップスとチーズケーキを取り、ベートーベンの『歓喜の歌』が流れる中、家族に見守れながら最期を迎えた」とのこと。

 デービッド・グドールという名前の男性だが、この人は「重大な病気を患っていたわけはなかったが、近年、運動能力や視力の低下から人生を楽しめなくなったと感じ、自死を望むようになった」らしく、共感できる部分は確かにある。

 安楽死について私は安易に肯定してるわけじゃない。だが、この記事を読んで100歳以上の人には安楽死の権利を与えてもいいのではと思った。100歳で区切っていいかどうかの問題は別にして、十二分に生きた人には最期を自由にさせたい。

 100歳の心境は…その時になってみないと私には分からないが、ただこのグドール氏がつくづく幸せだなと思うのは、安楽死を選択できる明晰さを104歳を迎えても維持できた精神力の持ち主だったということ。

 認知症などを患い自らの存在を客観的に捉えられなくなると、自殺したくても自殺できないし、自殺の概念すら忘却されるだろう。最後のケジメは自分で決められるくらいの気力と体力を維持したまま100歳を迎えられたら…と思わずにはいられない。