映画「遠雷」の思い出

 「遠雷」は1981年のATG作品。監督・根岸吉太郎、脚本・荒井晴彦、主演は永島敏行と石田えり、そしてジョニー大倉に横山リエ。20代中頃に劇場で鑑賞したが、その頃の私は生活が不安定でいつもモヤモヤして、だからこそ印象が深く刻まれることになった。最近BSの日本映画専門チャンネルで放送してくれたので懐かしさのあまり再見した次第。あらためて非常に良質な作品だと感心した。

 私と永島敏行とは同世代。彼の演じた主人公も当時の私と同世代というわけで、映画で描かれた環境と私の生きてきた環境とは違っても雰囲気が本当によく分かる。ぎこちない仕草と鬱屈した感情。吐け口をどこへ向けていいやら分からないもどかしさ。そんな悶々とした日々を送った若者として、あまりに身近過ぎるため公開当時はこの映画から距離を置きたいくらいだった。

 じつは、同じく80年代前半に公開された「ヒポクラテスたち」や「狂い咲きサンダ―ロード」「の・ようなもの」といった作品の方に映画として魅力を感じた。それは描かれた世界が、大学の医学生だったり、暴走族だったり、落語家だったりと一般世間からは異質で、少なくとも私の周囲からは遠かったので逆に映画として楽しむことができたのだ。しかし「遠雷」は異質どころか私の世界そのものだったのである。

 宇都宮市近郊が舞台。トマト栽培に明け暮れる永島敏行と、米作りに励むジョニー大倉は親友だ。この二人は性格も考え方もソックリでほとんど区別がつかない。スナックに勤める横山リエと密会してセックスするところまで同じだ。ところが、映画の終盤になり永島の方は石田えりと結婚して幸せを得るが、ジョニーの方は横山リエを殺して刑務所に入るという不幸の極みに陥る。さて、結果としてこの両者の極端な違いの原因はどこにあったかといえば、じつはほとんどなかったと言える。

 振り返れば、私のこれまでの人生なんて運が良かっただけ。ほんのちょっとしたことで命の問題にまで発展しかねないこともあった。ある意味、綱渡りのような人生だったかもしれない。大袈裟でなく、じつは誰も皆が同じような境遇ではないかと思わずにはいられない。

 この作品の本当の良さが分かるためには、ある程度の年を取り、それなりの距離感を維持してからでなければ無理かもしれない。都会でなければ田園でもない中核都市周辺の日常。そんな中途半端な世界で、身近な人間関係にまみれながら幸せを得る永島敏行と不幸に陥るジョニー大倉。この両者を足して割った存在こそが私なのだ。

 それにしても永島敏行という役者のダイコン振りが見事にハマり、栃木弁と演技のアンバランスがうまく調和している。石田えりの田舎臭い開放感がいかにも普通でいい。そして七尾伶子原泉蟹江敬三ケーシー高峰藤田弓子などの脇役陣が物語の枝葉として存在感を示し、作品に膨らみと普遍性を与えている。