ガレキは受け入れたい

 東日本大震災から早1年近く経つが、東電福島第一原発事故処理を始めとして様々な問題が遅々として進んでいない。爆発した原発に関しては調査・解体作業にこの先数十年の歳月を費やさなければならないし、放射能汚染はさらに長期間に渡り大勢の人々に影響を及ぼすだろう。その放射能汚染に絡んで迷走する典型的な問題がガレキ処理ではないだろうか。

 東北全体の膨大なガレキをなんとか受け入れてほしい、と政府は全国の自治体にお願いするが各地の反対運動により妨げられている。ガレキ受け入れ反対を主張する人たちの一番の理由は、汚染されたガレキを受け入れると放射能が拡散されて特に子供たちや農産物へ影響が大きくなるというもの。この気持ちは本当によく分かるので、だからこそ政府は徹底的に放射能測定を行うから安全なガレキだけを受け入れてほしい、と懇願している。

 安全なガレキなら問題ないはずだが、処理が進展しないのは地域の住民にとって政府の言い分が信用できないからだろう。大震災後における政府のデタラメな対応を振り返れば、ただ信用しろと言われても無理である。それほど人々は政府に対して不信を抱くようになってしまった。政府からの一方的通達だけでは無理だから、住民と政府の間に信頼のおける第三者機関を置くことで粘り強く受け入れの交渉をするしかない。

 放射能に汚染されたガレキはダメだが、安全が保障されたガレキなら積極的に受け入れるべきだ。しかしどんなガレキでもダメだと言うのなら、これは地域住民のエゴ以外何者でもなくなる。被災に遭った人たちを少しでも救済したいという気持ちがあれば、ガレキ処理に放射能の疑問が潜在しようとも前向きな姿勢くらいは表明できるはずだ。ところが他者への救済の気持ちよりも、我が身の安全・安心にだけこだわる傾向が強くなっている気がしてならない。

 たとえ放射能に汚染されていなくても、ガレキを受け入れると地域のこれまでの歴史や観光のイメージが損なわれるから嫌だ、という風潮が強まるとしたら本当に残念だ。助け合う気持ちが失われたら人間同士の共存共栄など遠い夢物語に過ぎなくなる。それにしても東京電力と政治中枢の責任は大きく罪深い。