庶民だなぁ

 先日、新しいブーツを購入するため近くのスーパーに出かけた。2年前の冬、同じ場所で安売りのブーツを買ったが、何度も履くうちにパックリと裂け目ができて、雨や雪の日に水漏れするようになったから。安売りを再び期待して出かけたわけだ。

 広い店内の靴売り場を物色していると、ブーツの安売りコーナーを発見。3000円と記入された白札と一緒に「現品につき2000円に割引」と赤札がぶら下がっている。ヤッター! 1000円もお得だ。さっそく買うことにしよう。

 自分の足に合うサイズを探し、気に入った形のブーツを見つける。代金を払うためレジに向かうと――。

 女性の店員が「ハイ、2500円です」
 「エッ、2500円? 2000円じゃないんですか」と私がつっこむ、
 「これは2500円ですよ。どうなさいます?」と、ふたたび女性の店員、
 「ああ、これでいいです」と太っ腹?を装った私は2500円を払うことに。

 2000円のはずが、なぜ2500円なのか? 腑に落ちない私は店員が背を向けている間に安売りコーナーで確認する。幾つもの棚が並んでいるが、一つ目の棚の商品には確かに安売りの赤札が下がっている。だが、二つ目の棚の商品からは赤札が下がってない。安売りは最初の棚に並んだブーツのみだったわけだ。

 私はてっきり棚全部が同一の安売りコーナーに違いないと早とちりして、従来の値段を記した白札も安売りの赤札も確認しないままレジに走ったというわけ。私の不足であった。

 安売り商品とそうでない商品との500円の差額。私の気持ちが非常に重くなった。たった500円だが、されど500円だ。ブーツで3000円ならそれでも相当安いはずだが、さらにそれが2000円になると信じた買い物が2500円。冷静に考えればたいしたことないが――。

 庶民である。私は庶民なのだ。私にとってスーパーにおける500円は大金だ。衣食住に直結した10円、20円の差は気になってしようがない。いや、1円、2円の違いですら重大だ。スーパーで買い物する人たちは私を含めて皆が生活を背負っており、だから血まなこである。つくづく私たちは庶民なのだ。