欠落した視点

 テレビや新聞の大マスコミ、さらにインターネットメディアなど、主流に登場する評論家の多くの意見はいかにもその通りで、それらを読んだり聞いたりする限り、可もなし不可もなし。しかし、よくよく吟味すると、彼らの意見には決定的に欠落した視点があることに気づく。

 たとえば、普天間基地移設問題で沖縄防衛局長だった田中聡氏の「犯す前に犯すと言いますか」のオフレコ発言をスッパ抜いた琉球新報に対し、評論家の田原総一郎氏などは記事にすべきでないと批判した。田原総一郎氏によれば、ざっくばらんな雰囲気でのオフレコを表に出すことは約束違反、互いに足の引っ張り合いを繰り返すだけで何事も進展しない、ということらしい。

 さらにたとえば、イランの核開発で米国は「ケシカラン」と原油輸入禁止措置を同盟国に求め、イランに対し経済的圧力を加えようとしている(イランから大量の原油を輸入する日本は米国に従うばかりで実に情けない)。イランの核開発は世界の平和と安全を危うくするというのが米国の主張で、日本の評論家の多くがそれに同調している。(イランは対抗措置としてホルムズ海峡封鎖を口にするが・・・。)

 確かに、約束違反に主眼を置く田原氏の論法は一見そうかもしれないし、イランの核開発が核兵器に転化すれば中東地域は緊張、米国の姿勢は真っ当のようだ。しかし、沖縄と本土の関係や、さらに世界の核開発を直視したとき、琉球新報の記者やイランの姿勢を安易に批判することなどできるはずがない。

 日本国土の0.6%しかない沖縄に米軍基地の74%を押し付けて、本土は常に沖縄を差別してきた。イランの核兵器はダメだと言いながら、米国は大量の核兵器保有したままだ。本土は沖縄の基地を受け入れ差別を解消しなければならず、イランに核兵器を作らせたくないなら米国は自らの核兵器を放棄すべきなのだ。

 圧倒的な不公平が横たわる現実に眼を背き、一般論を展開しても説得力はない。田原氏のような論調は公平になった社会においてのみ意味を持つ。米国の態度は米国を含めたどの国にも核兵器が無くなくなった状況においてのみ通用する。主流の論調には不公平が蔓延する現状からの視点が決定的に欠落している。