世界一の電車

 映画好きな私が東京を離れるとき「新文芸坐」に通えなくなるので辛かったが、もうひとつ「山手線」に乗れなくなることも寂しく思った。

 私は乗り物では自動車が嫌いでマイカーは所有していないが(もともと車を持てるほど余裕ある生活環境ではないけれど)、しかし電車は好きだ。東京で会社員勤めをしていたときも、歌舞伎町でBARを経営していたときも、ほとんど毎日山手線に乗っていた。一周約35kmの所要時間は約一時間、内回りと外回りが同時に走り、各駅ほぼ3分おきに到着と発着を繰り返す。

 毎日利用していた私だから声を大にして宣言しよう、山手線は「世界一の電車(路線)」だと。外国の電車をまるで知らない私が勝手なことを言うのもなんだが、つまりそれくらい山手線は便利だと思うのである。東京在住の最初から最後まで私は山手線の沿線で暮らしたが、私と同じような人々にとって山手線は水や空気と同じくらい重要で、そのあまりに手軽な便利さゆえに、ありがたみを忘れてしまうくらいだ。
 
 山手線を主に利用する限り、移動手段として車などまったく必要ない。私は高校を卒業してすぐ車の免許を取ったが、ハンドルを握ったのは最初の一年ほど、その後まったく運転経験はなく、典型的なペーパードライバーである(免許証は証明書替わりになるので免許更新は今もつづけている)。

 現在、山手線には29の駅があり(品川と田町間に新駅を作る予定らしい)、それぞれが個性的だ。しかし私の長い東京在住期間中(33年間)、唯一通過するのみでホームに降りたことがない駅がある。それは大崎駅。なぜか大崎駅には縁が無かった。

 東京を離れるとき無理して大崎駅に立ち寄ろうとしたが、間際になって止めた。山手線にさんざん世話になった私には、大崎駅という一度も降りたことのない駅を心に刻むことで、逆に山手線の存在が思い出深くなると思った。山手線を愛すればこそ、わざと大崎駅に立ち寄ることをしなかったのだ――とキザだが言わせてもらう。

 東京を離れて早3年近くになるが、あらためて山手線には感謝したい。いつの日か、ふたたび東京の地に足を踏み入れたとき、また是非利用させていただく。その時、大崎駅に降りるかどうかは分からない。