本当は孤独なのだ

 東京を離れるまで新宿歌舞伎町でBARを10年以上経営していたが、その前は長らく普通の会社員だった。そんな随分昔の会社員時代のことをときどき思い出す。

 私にとって会社勤めは全然面白くなかったが、その理由は誰からも理解されずに孤立している自分をいつも感じていたからだ。結局、周囲の人々と本音を語り合える関係を築けなかったことが仕事に対して前向きに取り組めなかったのだろう。しかしこれは、私自身の姿勢が甘かったに過ぎず、他人のせいでないことは勿論である。

 孤立している自分自身を感じていたのは他でもない、私よりも若い世代の社員が大勢で一緒に食事したり遊んだり旅行したりする光景がいつも眼に入ったからで、それを見るたびに羨ましいと思っていた。本当に、若い社員たちが常に一緒になって冗談を交わしたり飲みに行ったりしていた。彼らに比べて、私は行きも帰りもいつも自分ひとりきりだったのだから。

 ところが、ある日のこと、その若い集団の中でも人望のあると思われるひとりが私とたまたま一対一になったとき、「全然面白くない。みんな○○の言いなり。嫌々付き合ってるだけ、だれもが上辺のことしか喋らない」と語ってくれたのである。

 彼は私に本音を話してくれた。そのとき私は驚いたが、それ以上に嬉しくなった――と正直に告白しよう。傍からてっきり仲が良いと思っていた若い集団が、じつは皆がバラバラで私と同類。正体を知ってしまったからである。その後、冷静になって眺めていると、確かに若い社員の誰もがぎこちなく演技をしているようにしか見えない。本心を偽り、集団に合わせながら生きるのは大変だとつくづく感じたわけである。

 本当は、誰も皆が孤立しているのだ。孤独こそが一人ひとりの人間の本質であると思わずにはいられない。

 先日観た映画「接吻」で描かれた小池栄子が演じた主人公は特殊なのではなく、むしろ彼女のような孤独に徹する人物像こそが本質において一般的ではないかと確信するのである。多くの人々は孤独を直視せずに己をカモフラージュしているに過ぎない。