私とは他者である

 私という存在は何であるか? という問いかけに対し、簡単に答えを導きだすことなどできないだろう。古今東西、多くの哲学者たちの頭を悩ませてきた命題に違いない。だが、私はあえて答えを導きだす。私とは何か? それは他者である、と。

 私は他者である、とは矛盾した言い回しだが、矛盾するわけではもちろんない。もし他者が第三者としての個有名詞であるなら矛盾するかもしれないが、ここで言う他者とはあくまでも私以外の不特定他者なのである。

 すなわち、私は他者である、の他者とは私以外のひとり一人の人間のことであり、分かりやすく言えば、私は私の心に大勢の個人を生存させたいのである。私は、私自身にこだわることで私以外の他者の生存を忘れたくないのだ。

 かりに、何十人、何百人、何千人、何万人と、実際に多くの友人・知人と懇意の関係を築き上げたとしても、私が私自身にこだわるあまり、私を中心としてしか世界を眺められないとしたら、そんな私はとても孤立した存在ではないだろうか。

 一方、言葉を交わすことのできる具体的な第三者が少なく、いやほとんどいない、端から見ると完全にひとりぼっちだとしても、そんな私が常に多くの他者を水平な位置から意識することができるなら、私という存在は決して孤立していないと思う。

 SNSソーシャル・ネットワーキング・サービス)が大流行らしく、パソコンやスマホでそれにハマり依存症になってしまう人たちが多いという(特に若い世代で)。常に繋がっていたいという気持ちは分からぬではないが…。

 依存症になるような人たちの心の奥では、だれかに認められたい、という孤独感に苛まれているような気がする。だれかに認められたい、という気持ちが強過ぎるのは、それは裏を返せば自己中心的で自己愛に耽溺しているからだとも言える。

 自己中心が過ぎると自らを滅ぼすことにもなりかねない。自己を解放し、他者と一体となること――それができるなら、過去・現在・未来へと場所を選ばず通底することができる。だれかに認められなくたって一向にかまわない。