接吻

 人間同士が繋がろうとする行為の中で「接吻」はとても艶めかしい。下半身の性器による結合と、上半身における唇を重ね合わせる接吻は、違う者同士がなんとか一つになるための肉体的な営みである。だが、レイプが暴力そのものであるように、同じ接吻でも性愛を目的としない、まったく異質な接吻がこの世には存在する。

 生い立ちも環境もまるで違う者同士、そんな二人が互いに魅かれ合いながら交わす接吻には相手をもっと知りたいという願いから、身も心も一つに合体したいとの欲望が互いに発散され艶めかしさは増幅する。だが一方で、深遠なる異次元をなんとか感じさせるための直接的行為としての接吻があり、違う者同士であってもそこに艶めかしはない。いや、ある意味、艶めかしいのかもしれないが、それは恍惚とした性愛の悦びとは反対の、厳しく冷徹な艶めかしさである。

 同じ人間だが、決して理解し合えない者同士がいる。ほんの身近に存在し共通の生活を送っているにもかかわらず、根本においてまったく異質なのである。この場合、片方はある程度包摂しているのだが、もう片方はまったく理解できないし、少しも分かろうとしない。一方通行の関係が延々とつづく。

 ワイドショーに出演するコメンテータのような一般常識の表面的な言論しか口にできない相手に対し、暗黒世界の真実を知らせるための最後の手段がもし強烈な接吻だとしたら? 理解不能の相手と交わす接吻には、少しでも分かってほしい、分からなくても少しは感じてほしい、もっと世界の深底まで降りて来てほしい、という艶めかしいサインを送ることになるのだ。
 
 以上のことを書かずにいられなくなったのは、CS放送で「接吻」という映画を観たからだ。主演は小池栄子豊川悦司、中村トオル、監督が万田邦敏。この映画は人間関係を描いたサスペンスで、人間の内奥に潜む「究極の孤独」を抽出させる。

 2008年に公開された「接吻」を劇場で観たかったのに私は見逃した。CS放送の映画チャンネルで配信されていたのでようやく鑑賞することができた。あらためてこういう作品こそを映画館で観たいと思った。暗闇の大きなスクリーンで体感できたら、もっと強烈なインパクトを与えられたかもしれない。「接吻」は、黒沢清監督のサイコ・サスペンス・スリラー「CURE」と並ぶ傑作だ。