散文と詩の違い

 ときどき私はこの日記で詩らしきものも書いている。出来栄えの是非はともかく、私は詩が好きなのである。本当は書いたもの全てが詩になればいいと思っている。だが詩はそう簡単に書けない。難しい。とても難しい。

 新聞や雑誌、インターネットの記事やブログなど、多くの文章を眼にする毎日だが、20行で済むところを200行に膨らませているものがたくさんある。もちろん同じ中身を10倍に肥大させて文章化できるのもひとつの技術であり、決して揶揄するつもりはない。ある意味、些細な中身でも大袈裟に扱い読者の注目を引くことの出来るのがプロの書き手かもしれない。

 よく「行間を読む」と言われる。小説や評論などは、当然ながら表現された文章そのもので勝負しなければならず、作品に奥行きを与える背景の役割が行間なのだろう。対して詩は、行間を読ませるためにこそ言葉が綴られる。すなわち、散文は言葉が主役で行間が脇役、詩は行間が主役で言葉が脇役。

 フランスの詩人ポール・ヴァレリーが確か「散文は歩行、詩は舞踏」と例えたように、古今東西多くの人々が散文と詩の違いについて語っているが、同じ言葉でも性格はまるで異なる。

 この世には言葉で表現できないものが存在する。その言葉にならないものを何とか暗示させようと言葉を紡ぐのが文学における詩である。真の詩人は言葉にならないものと向き合い対話する。言葉は目的ではなく手段である。

 行分けされていると形として詩らしく見える。だが、日本の詩には行分けせずにそのまま書き連ねても大して変わらない作品が多い。日本語は散文に向いているかもしれないが、余計なことをダラダラと長く書きたくはない。200行の中身を20行で表現するのが詩であり、文章を綴るなら散文詩のように書いてみろ――と常に自分を戒めたい。