本物を見つけるために

 人はだれでも疑っている。見たり聞いたり触ったり…それら五官から伝わる感覚からだけで本物を発見することができるのだろうか…と。光りが差すところには必ず影ができるように、光りと影とは互いに補完し合う。すなわち、実態そのものは、見えるところと見えないところが一体となっているはずである。

 私たちは昼と夜が繰り返される日々を送っているため、光りと影の割合は半々のように錯覚する。しかし、宇宙について探求すればするほど、ダークマターダークエネルギーの存在が浮かび上がり、じつは暗黒の世界の方が遥かに広い領域を占めていることが分かってきた。そうなのだ。実際の宇宙そのものが光りよりも闇の世界に包まれているように、宇宙の一角で生きる私たちの日常も、圧倒的に暗黒面が支配しているに違いないのだ。

 ところで、文学や美術や音楽、映画や演劇など、私たちはなぜ表現に惹かれるのかといえば、それらの手段を通して知らない世界を垣間見ることができると思うからだ。

 あらゆる表現手段の中で、人類にもっとも影響を与えてきたものは「詩」である。普通、言葉を綴る詩は文学の範疇に入るが、しかしそれをポエジー(謎や神秘、感性や知性を刺激するもの)として捉えるなら、あらゆる表現はポエジーを醸し出すためにこそあり、たとえどんな形式でも表現されたものが優れているかどうかは、そこにポエジーが濃厚であるかどうかで判断されると言ってもいい。

 ポエジーそのものは感覚だけで捉えることはできず、決して具体的な形にはならない。ポエジーの本質は常に闇に隠れ、いつも背後に潜んでいる。だからこそ、文字や色や音や映像、さらに肉体そのものを通してなんとかポエジーを暗示させようと表現者はいろいろ試そうとする。どんな分野であろうと、表現に携わり本物を追求しようとするなら困難が伴うのは当然ではないか。

 私は、口数の多い、なんでもペラペラ喋りたがる人物を好きになれず、特に迷いや葛藤がなく、何でも分かっているかのように発言する人物は嫌いだ。それが権力者として君臨するなら尚更嫌悪する。テレビやインターネットを通して目立ちたがり、自分が正当であることを弁明したがる人は多いが、彼らにとっての興味は光りが当たる部分ばかり、暗黒の闇の世界への想像力が著しく欠けている。本物としての魅力が彼らに欠けていることだけは確かなようだ。