本音の浅はかさ

 本音を語ることで大衆の受けを狙い、目立ちたがる連中がいる。本音なんて恥ずかしくて浅はかでなかなか口には出せないはずなのに、それがまるで正直で、いかにも真っ当であるかのように勘違いする。

 それは本当に心の奥底からの言葉なのか? 本音らしきものをまずは疑ってみなければならない。適切な言葉が見つからなくて、ただ単に安易な表現に走ってるだけじゃないのか。本当に重要なことは簡単に言語化することなどできないはず。

 本音を口にしたがる連中は、ただもうそれだけで、自分がいかに薄っぺらな人間であるかを曝け出しているようなもの。恥を知るべき、と訴えたくなる。それにしても、表層だけで判断する傾向が近年社会全体に益々蔓延してる気がして、じつに情けない。

 トランプや安倍晋三橋下徹、さらに長谷川豊など…彼らの言質にはポエジーがまったく感じられない。彼らがどんなに言葉巧みに語ろうと、文言に深みがなく行間に奥行きがないから本当につまらない。薄っぺらな文章を読まされるようで、これでは拙いながら一生懸命自分の気持ちを表そうとする小学生の文章の方がよほどマシだ。

 分かりやすさ、単純さ、それらの本音に騙されてはいけない。ポエジーはどこまでも奥深く広大無辺である。だからこそいろんな言葉を紡ぐことで「確かな何か」を暗示させようと詩人は格闘する。

 「殺せ!」「叩き出せ!」「踏み潰せ!」「ゴキブリ!」…これらのヘイトスピーチと詩(ポエジー)とは対極の位置にあり、これほどかけ離れた関係はないのだ。これは言葉だけの問題ではなく、科学・哲学・芸術等の様々な分野、色・音・形等のあらゆる表現手段…それらの共通項である。