人間社会の成長

 この世界には、どんどん変わるものと、まったく変わらないものとがある。科学技術の発達だけを見ても私たちの身の回りの変貌は激しい。一方、人間の存在そのものを問いかけたとき、大昔から人間はちっとも変わっていないことに気づく。

 大昔から現在まで、人間は争いを繰り返し、多くの命が奪われてきた。戦争という大規模な現象から、隣同士の小さなイザコザまで、人間社会から暴力が消え失せたことは無かった。暴力を克服し、いかに平穏な社会を築くことができるか、人間における永遠の課題かもしれない。

 暴力が現実に起こりうる以上、暴力に眼を伏せるわけにはいかず、暴力をしっかり見据えなければならない。暴力は起きるが、もちろん暴力を肯定するわけにはいかない。人間はだれもが暴力に巻き込まれたときジレンマに陥る。

 「やられたら、やり返す」のがこれまでの歴史であり、やり返す限り暴力の連鎖は断ち切れない。だから「やられても、やり返さない」ことで暴力を撲滅するしかないのだろう。しかし、ガンジーのような常に非暴力を貫ける偉人に誰もがなれるわけではなく、私のような凡人は心の奥底に「やられたら、やり返す」気持ちがいつも燻っている。

 暴力を克服するために、「ガンジーになるべき」と多くの人々に求めるのはそもそも無理である。無理なことを一方的に要求すれば、逆に、今度は違った意味で世界はイビツになりかねない。ガンジーになれなくとも、人間が暴力を克服することができるかどうか、凡人は知恵を出し合わなければならないと思う。

 人間社会から暴力を完全に無くすことはできない。まず、それを認めるところから出発したい。そして肝心なことは、暴力をいかに小さく封じ込めることができるかにかかってくる。例えば、私が被害者になったとき、私の心情に共感する多くの人々が、私と一緒の激情に駆られ暴力を拡大させるか、それとも第三者として冷静に判断しながら暴力の縮小に取り組めるか。

 人間の本質は変わらなくとも、社会は変化する。暴力を通して人間社会の成長が問われる。