銭湯が町から消えてゆく

 家に風呂はあるが、古くて窮屈で、入っても慌ただしく身体を洗うだけ、のんびりゆったりした気分に浸ることなどできない。だから週に一度は銭湯に通っている。

 銭湯が好きだ。東京で長く暮らしたが、ずっと風呂無しアパートだった。好きも嫌いも銭湯に通うしかなかったわけだが、すぐ近くにあったお陰で無理して風呂付きアパートに住む必要はなかったのだ。銭湯の広い湯船に長〜い足?を存分に伸ばして浸かっていると本当にリラックスできる。

 東京に出てきた頃、銭湯は近所の至る所にあった。しかし、月日の経過と共にどんどん減少し、東京を離れる頃には2軒のみとなってしまった。歩いて5〜6分以内にあった2軒の銭湯のお陰で不自由はしなかったが、それでも以前は歩いて10分以内に10軒以上営業していたと思う。

 金沢の銭湯事情は、東京より厳しいかもしれない。今現在、私の住居から歩いて10分ほどのところ、それぞれ別方向に3軒ほど残っている。私が子供の頃は歩いて数分以内に銭湯がたくさんあったが、時代は変わった。残った3軒はいつもガラガラ、廃業は時間の問題かもしれない。

 地方都市は人々の生活形態がすっかり変化しドーナツ化が著しい。町の中心部はお年寄りばかり。若い世代は郊外のオシャレなアパートやマンションや一戸建てに住んでいる。郊外には従来の銭湯とは違う大型の温泉施設がいくつかあり、皆は車で通っているようだ。

 町中の銭湯を利用するのは高齢者ばかりで私が一番若いくらい、子供は滅多に見かけない。かつての老若男女が集う社公場の雰囲気はなく、数人の客がただ黙々と身体を洗っている。

 私が銭湯を利用するのはリラックスできるだけでなく、お年寄りの裸が嫌でも目に入り、痩せ衰えた肉体が近い将来の自分の姿とダブり身近な現実を直視できるからだ。これは貴重な体験となる。たったひとり、家の狭い風呂に入ってばかりいると、これはなかなか自覚できないだろう。

 さびれた町の銭湯は、近未来の縮図だ。まるで、日本社会の行く末を暗示するかのようである。