映画「エクソシスト」再見

 表現されたものは時間の経過とともに評価が変わる。その理由は、鑑賞者が年齢を重ねながら経験を積み、ものの見方や捉え方が多面化することで思考が深まり、人生観や世界観が変化するからだろう。

 映画専門チャンネルの半年ほど前の作品がレコーダに残っていたので鑑賞することにした。作品は「エクソシスト」。若い頃劇場で観ていたが、懐かしかったので録画してそのままになっていたのだ。1974年日本公開のこの作品は、恐怖描写がリアルでオカルトブームを巻き起こし大ヒットした。

 公開当時、神と悪魔の対決という内容に私も魅かれた。正直恐かった。特に、前半から中盤にかけて少女リーガンに悪魔が憑依するまでの過程がジワリジワリと身に迫ってくる。ただ後半、口から緑色のゲロを吐いたり、首が180度回ったり、身体が空中に浮かんだりする、直接的描写には逆に笑い出したくもなったが・・・。

 この映画の主役は悪魔が憑依した少女リーガンではなく、悪魔と直接対決するメリン神父でもない。本当の主役はメリン神父を補佐する、脇役的なジェイソン・ミラー扮するカラス神父である。あらためて再見して気づくのだが、この映画ではカラス神父とカラス神父の母親との関係がじつに丁寧に描かれている。じつは、若かった私には、神と悪魔が対決する映画に、なぜ神父の親子関係が描かれるのかよく分からなかった。

 カラス神父の母親は身体が不自由で心も病んでいる。カラス神父は母親を精神病院のような施設に入れるが、母親は自分の子供に棄てられたような気持を抱き悲嘆に暮れる。カラス神父は自分の行いを悔やみ大いに悩む。

 神父という、周囲の人々にキリストの愛を伝道し、人々に安らぎを与える仕事に就きながら、カラス神父は一番直近の自分の母親には愛も安らぎも施すことができない。カラス神父はそんな自分自身に絶望する。そして、悪魔はそんな苦しみ悩む人間こそを誘惑に導く。

 ラスト、自らの命を賭してカラス神父は、少女リーガンに取り憑いた悪魔を自分が受け入れ、自らの死をもって少女を救う。母親すら救えなかったせめてもの罪滅ぼしのように自らが犠牲となる。

 私は、身体も心も衰弱した認知症の母親と一緒に暮らしているが、今になってこの作品の本当に訴えたかったことがようやく分かった。これはさすがに20歳そこそこの若い時分に鑑賞しても理解できるわけがない。

 公開当時、私は映画「エクソシスト」の表層の恐怖描写にばかり気を取られ、作品が抱える奥深い内容を透視できなかったのだ。神と悪魔の戦いよりも、カラス神父という一個人の内部葛藤を通して人間の生き方を問いかけたのが「エクソシスト」という映画であり、あらためて傑作だと思った。