映画のリアリティー

 1954年に公開された「二十四の瞳木下恵介監督)」は日本映画史上における反戦物の傑作だが(日本の加害性には目をつむり、戦争に翻弄される人間の悲劇性のみに焦点を当てるという弱点を内包しているものの)、この作品のどこに感心したかと言えば、人間の顔のリアリティーである。

 「二十四の瞳」では十二人の生徒たちが高峰秀子演じる大石先生と共に主役を努める。その十二人の子供たちの顔が大人になって演じる俳優さんたちの顔とソックリなのだ。つまり大人の俳優の子供時代が甦ったかのように錯覚させられるのである。

 その昔、東京都文京区の小石川図書館の一室でこの作品を初めて鑑賞した。そのとき映画評論家の佐藤忠男氏が解説してくれて、「二十四の瞳」の十二人の生徒役は大人になったときに演じる俳優さんに良く似た子供たちを徹底して探し出したとのこと(順序は逆で、子役が先で、俳優は後だったかもしれない)。私は作品を観て、内容に感動し、子役の素人俳優に驚嘆し、そして撮影前におけるスタッフたちの苦労・努力に頭が下がった。

 ところで、「キューポラのある街(1962年、浦山桐郎監督)という吉永小百合出世作がある。これも日本映画史に残る名作のひとつだが、しかし私にはどうしても納得できない一面があり、それは吉永小百合の父親役が東野英治郎(名優)だったこと。この二人、どうしても父と娘の親子には見えなかったのだ。「気違い部落(1957年、渋谷実監督)」という怪作もあって、ここでは伊藤雄之助(怪優)と水野久美が父と娘を演じているが、これも私にはこの二人がどうしても親子には見えなかった。

 つまり、東野英治郎からは吉永小百合が、伊藤雄之助からは水野久美が、たとえ母親がどんな人であろうと決して生まれないと思うのだ(東野さん、伊藤さん、ゴメンナサイ)。

 映画や演劇では俳優さん同士で親子や兄弟姉妹を無理やり演じるのだから、似ていない方がむしろ普通であり、似てないからと強く文句を垂れる観客などいない。とはいえ、親子や兄弟姉妹が似ていた方がいいに決まっている。「二十四の瞳」では子供から大人へと変身する描写にリアリティーの比重が置かれ、それが戦争の悲劇性を強く訴え、結果として作品に説得力が増し、観客が納得させられたわけである。お見事!としか言いようがない。

 同じ年に公開された黒澤明の「七人の侍」を抜き、「二十四の瞳」は1954年度キネマ旬報ベストテンの第一位に輝いた。