人はなにを恐れるのか

 人間には怖いものがいっぱいある。いつ発生するかもしれない大地震とそれに伴う大津波、大型台風、豪雨、豪雪、竜巻、猛暑、山火事・・・それら自然災害は恐怖だ。さらに、原発の爆発、飛行機や列車や自動車の事故、強盗や殺人事件・・・等々。怖い、怖い。

 だが、天災ならまだあきらめが付くし、事故や事件の人災はまるで他人事のように自分だけは大丈夫だろうと思っている。だから、大勢の人々にとって天災や人災は心底から迫り来る恐怖ではない。

 幽霊は? そんなもの本気で信じている人など稀だし、信じていない人にとっては論外だ。ヘビやネズミやムカデやサソリ・・・などを怖がる人も多いが、平気な人もいっぱいいて、それらは好き嫌いの話。高所や閉所などは慣れの問題。

 以上、怖いものはいろいろあるが、じつは大多数の人間にとってそれらは本当の恐怖ではない。感情や生理にまつわる意識は常に変化するし、知識や訓練で克服できるものが大半だ。

 もっと漠然としたものを人間は恐れている。

 人間がいつも抱いてる本当の恐怖――それは慣れ親しんだ自分の生活が変化すること。変化といっても現状レベルよりも上がれば嬉しいのだが、しかしレベルが下がることには耐えられない。権力者であろうと、金持であろうと、平均的なサラリーマンであろうと、おそらくホームレスでさえ、自分の生活環境が悪化することを恐れている。その心情はだれであろうと共通だ。

 1億円を所有する者は9000万円になることを恐れるあまり、2億円を所有したいと願う。手元に100万円しかない者には1億円が9000万円になろうと相変わらず金持ちにしか見えないが、1億円を所有していた本人にとってはガマンならない。金額の大小はほとんど関係ない。ともかく人は財産が減少することを極端に恐れる。

 結局、減少の変化を恐れるあまり保守的となり現状維持にこだわる。身近な例だと、大事故を起こした東電福島第一原発関連のこれまでの経緯から、原子力村の住人である政治家や官僚や御用学者や御用ジャーナリストたちは、自分たちの地位保全のために原発安全神話を吹聴しているのだ。

 失うかもしれないという不安と恐れが増幅すると、個々の枠を超え全体へと膨張してゆく。やがて略奪や侵略への道が開き、それが戦争の要因となる。人間の抱く漠然とした不安や恐怖こそが、悲劇の源である。