禁欲という快楽

 お金は少ないよりは多い方がいい、生活は貧しいよりも豊かな方がいい、大勢の人がそれを望んでいるだろう。苦しいよりも楽しい方がいいし、汚いよりはキレイな方がいい。すなわち、人は「快楽」を求める。
 
 いつも美味しい料理に舌鼓でき、素敵な相方といつも一緒、身体も健康、仕事も順調、毎日が新鮮でウキウキできる。快食・快眠・快便の体調を基に精神面も充実、なんといっても性欲が十分満たされている。周囲からは信頼され尊敬され、高額の安定した収入を確保し、余暇を思う存分楽しみ、未来は常に明るい。こんな生活に憧れるのは、それが「快楽」だからだ。
  
 さて、以上のような快楽を享受している人間がこの世に存在するかと問えば、そんな人間は存在しない。なぜならそれらの快楽は、痛みと不安が常に付き纏う「苦悩」の裏返しに過ぎないからだ。分かりきったことだが、人間の欲望には際限がなく、肉体的にも精神的にも、どんなに豊かになろうとも人間は決して満足することはない。
 
 作用と反作用のように、所有することで失う恐れを抱え込み、快楽を求めれば求めるほど恐れは増幅する。

 決して満足できないことを追い求めても、それは空しいだけだ。振り返ってなにもなかったことに気がつき、ただただ徒労に終わるだけではないだろうか。

 世間一般の快楽とは正しくは「快楽を追及する苦悩」に過ぎない。それは無限の世界を相手にどちらが大きくなれるか競争するようなものであり、ちっぽけな人間がどんなに努力してみたところで敵いはしない。初めから負けることが分かっているのに、勝つことにこだわるあまり自滅へと突進してゆくようなものだ。

 世間の動向とは逆のことを目指せばいい、それは「禁欲」。

 際限のない欲望と、限界のある身体。両者のギャップから生じる苦悩。禁欲は、そんな苦悩に支配された心を解放させ治癒させる。それは、中途半端な自分自身を小さな存在へと導くもう一方の心の働きに他ならない。

 小さくなればなるほど無限の世界に溶け込みやすくなる。もっとも小さな存在がもっとも大きな存在と一体になる。そんなひとときこそが真の快楽であり、禁欲の醍醐味である。