美しいものと醜いもの

 世界遺産がブームだ。インターネットでも自然や古い街並みの美しい写真や動画が大量にアップされている。しかしそれらを眺めていると飽きると同時に嘘っぽく思う。なぜなら、この世は美しいものばかりじゃなく目を背けたくなるほど醜いものも同時に存在することを、私たちは知っているからだ。

 戦争や飢饉や災害は悲惨で残酷で、なによりも醜悪だ。そして、普通に暮らす身近な生活空間でも、同じように多くの人々が徹底的に醜悪なものと決めつけているものがある。

 例えばゴキブリ。どの家庭にも台所周辺でウロウロして、人はゴキブリを見るとまるで親の仇を討つかのように殺傷したがる。ゴキブリが人間から徹底して嫌われるのは、それがイメージとして不潔で汚いものだとの先入観があるからだ。

 醜い――と植え付けられているが故に人は醜く感じる。ところがちょっとした知識を得て視点を変えると、これまでの意識もガラリと変わる。世界中でペットや食用や薬品や実験用としてゴキブリが人類に役立っていることを知れば、これまでのゴキブリへの一方的嫌悪感は無くなり、むしろ親しみを感じるだろう。

 ゴキブリは単なる昆虫で、コオロギやセミなどと大して違いはなく、よく観察すると決して気持ちの悪いものではない。

 人間の意識はじつにいい加減で、今日嫌いだったものが何かのきっかけで明日好きになるし、その逆もまた真である。繰り返すが、私たちは人生を歩みながら醜いものを認識するのではなく、まったく逆に、はじめから醜いものとの認識を植え付けられるが故に醜いものだと信じてしまう。これは差別意識とよく似ていて、肌の色とか、○○人とか、〜宗教とか聞いただけで反応するのは、初めから誤った知識を植え付けられているからだ。

 嫌なものと無理して接する必要はないが、表面的な美と醜の境はじつに曖昧なのだ。私たちは常に美しいものや心地好いものに囲まれていたいと願うが、背景に隠されたものを忘れないようにしたい。世界遺産の景色を眺めながら、同時に戦争や飢饉や災害にも目を凝らしたい。美に憧れるのと同じくらいの気持ちで醜にも積極的に関われば、人生はもっと充実するはずである。