平和についてちょっと考える

 三度の食事に欠くこともしばしば、定住もできず、毎日の生活に苦しむ大勢の人々がいる。そんな人々にとって衣・食・住が保障された施設はなんとありがたいことだろう。風雨にさらされることもなく、それなりの娯楽も完備された施設に入ることができたなら、そこはこれまでの辛苦を舐めた生活環境に比べ天国のように思うかもしれない。だが、もしその施設の実体が収容所や刑務所だとしたら・・・。

 支配者が目指すのは、大多数の人民を規律と統制で同一化し、彼等に文句を言わせないよう洗脳すること。じつは支配者こそが争いや揉め事を嫌う。支配者は、私たちにある程度の衣・食・住と僅かの自由を与えつつ、私たちを徹底的に管理する。支配者の真の目的は私たちから想像力を奪うことだ。支配者にとって許せないのは、私たちが想像力を働かせ権力を批判することなのだ。

 「平和」と聞くと争いの無い状態をどうしてもイメージする。だが、争わないことを平和の条件に掲げると、なんだか窮屈になる。じつは、本当に平和な世界とは、一人ひとりの人間が自由で平等な世界のことだろう。自由で平等な世界では、自由だからこそ小さなイザコザは多少発生するかもしれないが、それが大きな亀裂を生み修復できないほど深刻な状況に陥るとは考えられない、なぜなら平等だから。

 ある意味、収容所や刑務所の住民は平和に暮らしていける。だが、収容所や刑務所とは、想像力の芽を摘むために人民を徹底管理する集合体だ。平和への願いが強いと人々はしっかりした政治家の登場を望んだりする。だが、威勢のいい政治家に限って一直線に独裁への道を突き進むかもしれず、私たちがそれを後押しすることにもなりかねない。

 「戦争はダメ、平和は尊い」とばかり、争いごとを無くすため個人を隅々まで監視する収容所や刑務所のような社会を築くとしたら、たとえ戦争が無くなっても、そんな平和は恐怖の世界と化すだろう。