インターネットの明と暗

 今日、インターネットは軽々と国境を越え、さらに人種や民族や宗教の壁も超え世界中の人々に浸透している。だから、インターネットは人々に自由と平等をもたらす技術のはずだった。しかし、残念ながら現実世界ではそれとは真逆の結果を産み出してしまっている。

 なぜだろう。インターネットが益々発展・進歩してるにもかかわらず、なぜ世界中に差別や格差が蔓延するのか。それは結局、従来の人間精神の奥底で蠢いていた醜い偏見までもが、同時に国境を越え、同時に人種や民族や宗教の壁をも越え、憎悪の炎に油を注ぐ手段としてインターネットが悪用されているからだ。

 今現在、期待するほど人間社会はインターネットを使いこなせていない。とはいえ、私はいずれ必ずインターネットの真の力が発揮される時代がやってくると信じる。国境や人種や民族や宗教の、これまで人間が抱いていた意味が大きく変化するはずだ。未だ個人は国家や人種や民族や宗教の下に置かれる状況だが、いずれそれらの概念は一人ひとりの人間の下に位置付けられる。

 価値観を一変させ、最も影響力大の技術革新として、インターネットが人類史に刻まれることは間違いなく、それを人々が上手に使いこなせるなら、人間の自由と平等が実現し、世界に平和と安全が築かれるに違いない。

 しかし一方、私たちが望む社会とは全く逆になる恐れもある。権力がインターネットを掌握し管理するとき、私たち一人ひとりはマインドコントロールされ奴隷となりかねなず、結果、人々から自由が剥奪され、誰もが均質化され似た者同士になるかもしれない。

 インターネットが国家を解体し、人種や民族や宗教の壁を取り払っても、地球を統合した世界権力がインターネットを一元管理したとき、人々はある意味で格差や差別のない平等な状況に置かれることになるが、しかしそれは、あくまでも刑務所内の平等に過ぎないだろう。

 解き放たれた原野にて、私たちは自由で尚且つ平等でなければ。冷たいコンクリートではなく、未来に向け豊かな原野を新たに創出する。それこそが本来のインターネットの役目だが、そのためにはどうすればいいのか。常に考えつづけなければ…流されてはいけない。真に自由であれば平等のはずだし、真に平等であれば自由なはずだから。