戦争についてちょっと考える

 二つの国家や地域の間で「さあ、お互いに戦争しましょうか」と始まる戦争などありえない。一方的な略奪と侵略に対して抵抗力が激化拡大したものがほとんどの戦争の実態だ。略奪され侵略されても抵抗が生じなければ戦争にはならないのである。

 だから、現実の差別や不公平を直視せず、略奪や侵略のメカニズムを掘り下げなければ、善良な市民がどんなに「戦争反対」と叫んでも説得力はない。一方、略奪や侵略を正当化し、莫大な利益を得ようとする人たちにとって抵抗されるのはもっとも嫌なことであり、だから彼等もまた「戦争反対」を口にする。

 「戦争反対」は聞えが好い。「戦争反対」を唱えれば安心だ。「戦争反対」に反対できない。そんな「戦争反対」の裏側で本当に虐げられている底辺の人々の実態が隠される。

 ところで戦争に反対する人々の中には、個人レベルの喧嘩と戦争とを同一線上に捉え、戦争を無くすには人間の感情を抑制しなければならない、と主張する向きがある。確かに個人レベルの喧嘩と戦争には共通の要素はあるだろうが、しかし、それを同一視することは大いに疑問だ。個人レベルの喧嘩が無くなれば戦争が無くなるかといえば、そんなことはない。むしろ逆に、個人レベルの喧嘩を容認するくらいでなければ戦争や紛争を防ぐことはできないと思う。

 人間はかならず過ちを犯す。だが過ちの規模を極力小さく閉じ込めることで、より大きな惨禍を回避させることができる。小さな争い事を認めた上で、その争いが拡大しないよう、社会を同じ色に染めない為にはどうすべきか、私たちは知恵を出し合うことが肝心なのだ。

 人間も動物だ。理性よりもまず感情が先走る。私たちの周りでは腹立たしいことや許せないことはいくらでも起きる。一人ひとりが自由を求めるなら尚更だ。近い存在であればあるほど摩擦が生じる。お隣さん同士だからこそ仲良くなるよりも気まずい関係に陥りやすい。

 小さな規模のイザコザは無くならない。小さな喧嘩まで否定すると、統制の効き過ぎた不気味な世界が誕生しかねない。