言葉の解釈

 新聞かインターネットで「脱原発依存」の言葉を初めて見たとき、私は「脱原発傾向に依存」のことかと思った。流行りの「脱原発」に依存する病気で、原発容認派が脱原発派を批判するために作った新語なのか、と勘違いしたのだ。しかしこれは「原発依存体質から脱する」が正しい解釈で、日本のこれまでの原発行政からの転換を目指す言葉なのである。

 つい先日、ノルウェーで極右青年が銃を乱射し80人以上の犠牲者が出て大きなニュースとなった。そして直近では、イギリスで黒人青年が警察官に射殺されたことをキッカケに若者を中心に大暴動が発生した。

 ノルウェーとイギリスの事件の背景には「多文化主義」の問題が潜んでおり、じつは、ヨーロッパ各国の首脳たちの口から「多文化主義は失敗」との声が以前から挙がっていたのだ。

 「多文化主義」でも、それぞれの文化が孤立し分断させる「多」文化主義と、これまでの様々な文化が融合し新たな文化を創造する「多文化」主義とでは、意味が全然違う。ヨーロッパで多文化主義が失敗したとすれば、それは「多」文化主義になってしまったことが原因だ。地球上にて本格的な人類の共存共栄がこれから始まるという段階で簡単に文化融合を諦めるのはあまりに早過ぎる。「多」文化主義がマズイのであり、「多文化」主義を目指すべきだ。

 脱「原発依存」と、「脱原発」依存がまるで異なるように、同じ表記で同じ発音でも、その言葉が誰にも共通の意味として理解されるとは限らない。単独の言葉のみを拾って勝手に解釈すると後でとんでもないことになりかねず、それぞれの言葉はやはり文脈の中から意味をしっかり捉えなければならないと痛感する。

 私たちの身の回りでも言葉のみが単独で飛び交っていないだろうか。特に差別用語などは注意しないと、誤解から差別が再生産され、増幅した偏見で私たちの生活がさらに窮屈な情況に陥ることになる。