安全な刑務所か、危険な解放区か

 「原発は無くなったが、朝から晩まで生活がガチガチに管理・監視された社会」がいいのか、それとも「原発は稼働しつづけるが、ひとり一人が自分の好きな道を歩むことのできる自由で平等な社会」がいいのか。

 上記二つの社会のうちどちらか選ばざるを得ないなら、私は後者を選ぶだろう。安全・安心で三度の食事に不自由しなくとも、一生刑務所暮らしなどまっぴらゴメン。たとえ物騒な原発が稼働していようと、のびのびと自分自身を思う存分表現できた方がいい。もちろん「原発の無い、自由で平等な社会」が良いに決まっているが、あくまで二者択一の場合だ。

 私は脱原発・反原発の立場だが、しかしもし、国民投票などで大多数の人々が原発を容認するのであれば原発稼働もやむを得ないと思う。かりに原発を稼働させるのであれば、技術的内容のみならず末端の労働環境までの完全な情報公開と徹底した安全管理、そして政・官・財、学者、マスコミ、労働組合などによる癒着・隠蔽体質からの脱却…それらを大前提としなければならない。さらに、稼働するなら、東京、大阪、名古屋などの大都市圏内に建設された原発であることが条件だ。

 普通に考えれば、民主主義を発展させる方向性において原発は受け入れられないだろう。民主主義と原発は水と油であり、自由で平等な社会になればなるほど原発は否定されることは間違いない。

 現安倍政権のような独裁政治の下では、刑務所社会と原発推進はセットになるし、かりに脱原発が実現しても刑務所社会を目指すことに変わりはない。一方、民主政治が発展すれば、自由で平等な社会から原発は拒否されるだろうが、とはいえ何らかの事情で原発に頼らざる得ない場合も生じるかもしれない。ただし、民主政治においては、あくまで先に述べた条件下のみで原発は可能とすべきだ。