宗教と権力

 近所の家の玄関に『宗教・セールス 一切お断り』と書いた張り紙が貼ってあった。そんな張り紙をしたくなる気持ちはよく分かるので、つい笑ってしまう。

 私の家にもときどき宗教関連の勧誘が来る。仕事中や食事の用意をしているときに突然なので、こちらの生活のリズムが狂わされる。キリスト教や仏教関連がほとんどだ。さすがにイスラム関係者はいない。

 勧誘に来るのは若い人たちが多い。彼等の話を要約すれば「真面目に生きた者は天国に召されて救われる」らしい。それにしても彼等は本当に「死後の世界」を信じているのだろうか。信じているからこそ宗教に嵌まるのかもしれないが――。

 宗教に興味があるなしは別として、人はだれでも「人間は死んだらどうなる?」と想像することがある。宗教の勧誘は、そんな不確実性に包まれた人間の心の隙を狙うかのようだ。

 思い返せば、「人に迷惑をかけてはいけない」「親や先生、目上の人、偉い人の言うことをよく聞きなさい」と子供を躾けるときに大人はよく口にしていた。じつはこれらの言葉の延長に、権力を維持するための方便がある。支配したがる大人は「自分の好きなように生きていい」と子供に教えたりはしない。「自分勝手なことをすると罰が当たる」と大人(強者)は子供(弱者)をコントロールする。

 宗教を勧誘する人たちにとって、真面目に生きて天国に召されるためには偉い人の言いなりになれ、ということらしい。真面目に生きるということは、文句を言わず奴隷になることなのだ。

 宗教はその時々の権力とつねに結託し(あるいは権力そのものとなり)、一般民衆が現世の不公平に目覚め蜂起しないよう、つねに来世を持ち出しては大多数の関心を現実から遠ざけさせた。それが宗教の役割だったのであり、今現在も基本的に変わらない。

 ふと考える。

 教会や寺院や神社やモスクを建立することが宗教ではない。貢いだり、頭を垂れたり、手を合わせたりすることは宗教の本質ではない。組織や団体を作って君臨することは宗教からもっとも離れた行為のはずだ。

 少なくとも宗教に生きるとは、自らを知り、自らを超えるための、たったひとりの目立たぬ毎日の歩みのはずだと思うが・・・。